三章 罪を背負う者
4 ——Side:Gilles
「見ていたよお、ジル。やるなあ、ひゅう〜〜!」
買い出しに行くと言って出掛けていった理玖と入れ替わりに、曜がひょっこりと顔を出す。
両手に湯気が漂うコーヒーを二つ携えている彼女は、そのままいそいそと部屋の中に入ると、先ほどまで理玖が座っていた椅子に腰をかけた。
思わぬ人物の登場に、ジルはぎょっと目を見開く。
突然の乱入による狼狽と、自分の告白を見られていたという羞恥で居た堪れなくなる。しばらく目を泳がせているうちに、はたと一つの疑問に行き着く。
「ドア、閉まってたはずですけど……?」
「ふふん。ここは私の家だよ?
隅々まで魔法回路が行き渡っているんだ。手に取るように分かるとも!」
「変なことに魔法使わないでくださいよ……」
何故だか妙に得意そうに胸を張る曜の姿に、ため息が出る。
この魔女を前にしてはプライバシーも何もあったものじゃない。
理玖もあまり会ったことのないタイプではあったが、変人度で言えば曜の方が上回っている、とはジルの感想である。
「まあまあ、コーヒーでもどうだい?
あ、腕は使えないのだったね。ストロー、いる?」
「そんな湯気出てるモンをストローで⁉」
「はっはっは、冗談だよ。
氷を入れてきてあげよう。しばし待ちたまえ」
朗らかに笑って、曜は再び部屋を後にする。
曜の冗談は、たまに冗談なのか本気なのか分からない。
掴みどころのない人だと感じつつも、どうしたことか別に嫌じゃない。
恐らくあれが彼女の素であるからなのだろう。変に飾らない人物は相手をしていて心地がいい。まあ、彼女の飄々とした態度には翻弄されっぱなしなのだが。
————
窓から差し込む穏やかな日差し。
カラカラと、溶けきらなかったアイスコーヒーの氷が音を立てる。
緩やかな春の午後のひとときは、あの夜と同じ世界で流れる時間とは思えないほど穏やかだ。
何故だか理玖の瞳の色を思い出す。
そういえば、初めて出会った時にその温かさに妙に引き付けられた。
今ならその瞳が持つ
そんな心ここに在らず、という状態のジルの横では、曜が目を細めてその様子を眺めていた。
やがて芳醇な香りを漂わせるコーヒーを一口啜ると、彼女は口を開く。
「いやあ、でも
そんなに理玖が気に入ったのかい?」
「気に入ったって、言い方……アイツには色んなことに気付かされたから。
これからも傍にいてくれれば、もっとたくさんのことに気が付けるかと思っただけで——」
「ふうん。彼が共に在ることで、未来にある種の可能性を見た、といったところかな?
それは良かった。あの子にとっても、誰かに必要とされることは嬉しいことだと思うよ。だけど——」
ことり、とマグカップが音を鳴らす。
サイドテーブルに置かれたそれに意識を寄せる間もなく、曜の整った顔が近づいてくる。
先ほどまでの柔らかな雰囲気は影を潜め、今の彼女は魔法使い然とした妖しい雰囲気を纏っていた。ジルの耳元に唇を寄せ、曜はそっと囁く。
「君の中にあるあの子への気持ちが、
君の気持ちが膨らめば膨らむほど、あの子もただではいられないからね」
「っ————」
どきり、と鼓動が跳ねる。
肝を掴まれたかのようなひやりとした痺れが身体を走る。
己の思考を見抜かれたかのような妙な気持ちの悪さ。
理玖に傍にいてほしい理由。
その真相を彼女は見透かしているのだろうか。
彼女に対して口にした理由は一つの側面にすぎない。
それもまた正しい答えだ。彼と共にいると自分が見落としていたものを拾い上げられる。
けれど、もう一つ。曜には伝えなかった理由。
どんな言葉で脚色しても、それは本来の想いを濁してしまう。
それならば飾らずに告白しよう。
——ジル・テレストリアスは、近衛理玖に惹かれている。
相手が同性であることなど、分かりきっている。
けれども、そんなことなど些末なことだと思えてしまうほどに、今回の事件を経て、彼は特別な存在としてジルの心に焼き付いてしまったのだった。
譲れないもののために多くの罪を重ねてきた、こんな自分に手を差し伸べて寄り添ってくれた。
それは、愛する者を失って孤独に生きてきたジルにとって、代えがたい救いだった。
纏う冷たい雰囲気に反した温かな心も、出会った時から惹きつけられた金の瞳も、彼を構成するひとつひとつが今はどうしようもなくジルの心を焦がす。
間違いなく、失意の底から救われた、あの時から。
曜の囁きは、その想いが妨げになるとそう警告しているのだろうか。
ただではいられないとは、どういう意味だろうか。
ぐるぐると思考が渦を巻く。
苦悶するジルを観察する曜は、既に先ほどと同じように椅子に座り直し、コーヒーをその手の中に収めて微笑んでいた。
「……その様子だと、やはりそれだけではなかったようだね。まあ、そうなった時はそうなった時さ。
困ったことがあれば私を頼ってくれたまえ。私も、それがあの子の為になるのなら、協力は惜しまない」
彼女はそう呑気に言い放っては、またひとくちコーヒーを口に含む。
その様子に張り詰めかけていた神経がふっと緩む。自分で不安を煽っておいてなんとマイペースなことか。
「煽っといて、あんた……」
「ふふ、いやあ。
気がついてなかったらそれはそれでまずいと思ったからね。
その様子だと、ちゃんと自覚があるようで良かった。
けれど、あの子に
彼が必要としているのは愛ではない——赦し、だからね」