三章 罪を背負う者
2 ——Side:Gilles
——状況は最悪だ。
これは、
ジルたちが現場に到着する前に、この領域の
加えて厄介なことに——この罠は
まるで、強化型の魔法使いを捕らえるために誂えられたかのように。
「っく、う……ッ——」
汚濁した
それがもたらす身体の痺れに表情が歪んでいく。
異端者を貫く為に強化した腕から入り込んだそれは、濃い毒性を瞬く間に身体中に充満させる。
身体強化の魔法を発揮させるために、最も効率良く
(ッ、やられた……ッ!)
己の不甲斐なさに苦渋の表情を浮かべる。
理玖と別働となる時点で、警戒を強めておけば良かった。加えて、標的の異端者がたった一人で目標地点からかけ離れた場所に現れたことに、もっと不信感を持つべきだったかもしれない。
省みてもキリがない。その間にも事切れた男の仲間であろう異端者たちが、ジルの周囲に集まってくる。
「クソ……悪人どもが……ッ」
集団で罠にかけるその狡猾さに、悪態を吐く。
身体は強い痺れで思うように動かず、通信機も何らかの障害でイカれてしまっている。
何か、手は……そう、必死に思考を回転させていた時だった。
「悪人? 面白いことを言う。君もまた同じ穴の貉だろうに」
集まってきた異端者たちを掻き分け、一人の男が姿を現わす。
真紅のローブを纏い、深く被ったフードのせいでその顔を視認することはできないが、彼が纏う
「お、まえは……」
「ああ、すまないね。自己紹介がまだだったようだ。
私はライアート。君たちが異端者と呼ぶ、この地の志ある魔法使いたちを束ねる長であり——
——彼らを惨殺した
————
「ア、ぐ……ッ、うあッ‼」
身体に突き立てられる、刃、刃、刃——それは脚の腱を刻み、腕の肉を抉り、腹の筋を裂く。
無数に切り付けられた傷跡から流れる赤は、しとどに大地を濡らす。身体のありとあらゆる箇所からなる猛烈な痛みは、もはやそれがどの部位から発生しているかすらも判断が難しい。
流れる血潮と共に汚濁した
ジルが裂かれた肉の痛みに悶える様子を眺めるライアートの表情は、深めのフードに隠されていてもなお嬉々とした色を滲ませていることが窺えた。
「痛かろう。苦しかろう。君が殺した我が同胞たちも同じように苦しみながら死んでいった。
これで終わりと思わないことだ。君には苦しんで苦しんで、絶望に堕ちながら死んでもらわなくては。
それでこその復讐‼ そうでなければ、我が同胞たちが浮かばれない‼」
次第に怨敵を屠る高揚感を顕にする彼は、手にした杖を地面に叩きつけては叫び散らす。
(……それは、その言葉は——)
『苦しんで苦しんで、絶望に堕ちながら死ね』
それはジルがこれまで、数多の悪人と断じた人々に掛けてきた言葉だった。
それが正しいと信じて、ここまで断罪を行ってきた。
それが怨嗟による復讐であることなど、とうに分かっていた。その果てに、今突きつけられているような反動が起きようことなど、分かっているつもりだった。
『復讐は新しい悲しみを生み、何も戻らない。
それを続けて罪に手を濡らすならば、己も同じように報復を受ける』
あの日理玖が告げたジルの未来を憂う言葉。それが今、現実としてジルに襲いかかっている。
ジルがそうしてきたように、ただ殺めるのではなく、じわじわと苦痛を重ねて、死すらも救済であるかのように思わせるその断罪を——報復を、突きつけられている。
(分かっている、つもりだったのに——)
傷だらけの身体が悲鳴を上げる。
その痛みが、ジルの脳内を侵食する。
忌むべき悪人を前に、命を乞うつもりなどは毛頭ない。けれど、こうまざまざと自分の行いをそのまま返されることで、己のそれがいかに惨いことであったのかを思い知らされる。
その痛みをもって、己の断罪の悪辣さをその身に刻まれる。それは、ジルが分かっているつもりでいてそうではなかった、色濃い罪の刃による他害行為だった。
認めざるを得ない。自分のそれは確かに悪だった。
だが、それなら自分はどうすれば良かったのだ。この惨い仕打ちを行わなくては、自分は自分を保ってはいられなかった。生きる意味を見つけられなかった。たった一人で、怪物と謗られながら、それでもそうして生きることしかできなかった。
その標すら悪逆そのものであったと言うならば、自分は、何を頼りに生きれば良かったのだ——
落ちる。失意の底に。
自らが標としてきた炎、その燃え盛る火の粉に自身すらも焼かれながら、燃え尽きていく。
心も、身体も、満身創痍のジルの全てが、暗い底へと落下していく。
朦朧とする視界の中、目の前のローブの男がごちるのを、その言葉を耳にする。
「ふん、これだけ傷を負っていながら、命乞いの一つも無しか。つまらん男だ。
——そうだ。ならばお前の仲間を同じように屠ってやろうか? それでは見ていることしかできまい。
聞けば、魔眼を扱う補助型の魔法使いだという。それならば、我々の数で押せば容易に抑え込める」
真紅のフードに隠れた口元が、吊り上がる。
ぞわり、とジルの背筋が凍りつく。
——だめ、だ。だめだ。動揺に、瞳が揺れる。
自分自身がその行いの報復を受けることは、分かっていたつもりだった。いずれはこうなる可能性があったことぐらい理解している。それは、いい。
だけど、彼が——理玖が傷つくのは、違う。彼は、彼だけは、だめだ。
今になって、失意の底へと落ちるその段階になって改めて、あの日の彼の言葉の温かさを思い出す。
彼はこうなることを案じていた。
彼だけが、自分の痛みを悲しいと言ってくれた。
寄り添おうと、手を差し伸べてくれた。その手を振り払って、自らの炎に縋った果てに陥ったこの状況で、彼が傷つくなどという結果があってはならない。
守らねば。たった一人、こんな自分に寄り添ってくれた唯一の人を。
「や、やめ——」
敵の首領に掴みかかろうと、傷だらけの腕に命令を下す。その意思は届くことなく、激痛に痺れたその腕は思うように動いてくれない。
頼む、どうかここへ来るな。来ないでくれ——必死に乞い願う。
しかし、その願いは棄却される。
それは、暗闇の中から突如として飛来する。
何らかの気配を感じ取った異端者の一人が、咄嗟に周囲を見渡すように顔を上げた。
「……? なんだ? ——ぎゃッ‼」
閃くのは銀の苦無。
稲光もいなや、という速度で飛来したそれは、ジルを取り囲む複数人の異端者の喉元を切り裂いた。
突然の奇襲に、異端者たちがどよめく。
「おい、どうした⁉ しっかりし……うわ、っ!」
赤く瞬くのは無から発生する爆炎——否、それは無に非ず。
何者かによって投擲された火のエッセンス、それが発火したのである。
その熱波は、不意を突かれた異端者たちを吹き飛ばす。
突如訪れた敵襲に、彼らの首領もまた半ば狼狽える。けれど、彼も多くの部下を束ねる長である。
一瞬の内に冷静さを取り戻した彼は、慌てふためく部下たちに指示を与えようと咄嗟に口を開く。
「おい、落ち着け! 体勢を立て直せ!
相手が魔眼使いなら、恐るることはない。数で抑え込め!」
ライアートの号令を受けて、異端者たちはどよめきながらも体勢を立て直そうと各々杖を構える——が。
されど、暗闇からの攻撃は止むことをしない。目に見えぬその襲撃者は、その姿を異端者たちに見せることなく四方から攻撃を繰り出し続け、それを阻む。
その攻撃は狼狽する異端者たちを着実に捉え、じわじわとその数を減らしていく。
普段から訓練されている掃除屋の部隊ならばいざしらず、寄せ集めの異端者ではうまく連携を取ることすら難しい。姿の見えぬ敵に闇雲に攻撃魔法を撃ち放ったところで、狙いが定まらぬその魔法は同胞である別の異端者に誤って直撃しては、その混乱を深めるばかりだった。
「ええい、何をしている!
くっ、透過の魔法か! おのれ、変異体の分際で小賢しい……!」
芳しくない状況に、ライアートは歯噛みをする。相手に優位を取られている状態では、捕らえて拷問を、というわけにはいかない。ここで無駄に戦力を消費することは、彼にとっても本意ではない。
やがて、ライアートは一つの結論に思い至る。杖を地面に数回叩きつけると、彼は声を張り上げた。
「撤収だ! やられた者は置いていけ!
ここでみすみす我が命を失うわけにはいかないのだ……!」
彼自身もまた、退路を行くために踵を返す。
その隙を逃さず、介入者は彼を
「逃さない——!
凝固していく
それはじわじわとその脚を圧迫し、彼の下半身がメキメキと音を立てた。
「クソ、魔眼使いが……! これでも食らえッ‼」
絡め取られた脚の縁を辿って、ライアートが術者に呪詛を返す。
弾けるような音が鳴り響くと、彼の脚に纏わりついていた
「繰り返す! 撤収だ!」
ライアートの再度の号令に、異端者たちは滑るようにジルの元から去っていく。
残されたのは、無惨に身体を斬り付けられ、瀕死の状態となったジルと——そしてもうひとり。
張りつめていた気も限界に達し、背から後ろへと倒れ込むジルに、彼は駆け寄る。
「——ジル、ジル! しっかりしてくれ……」
心配そうに沈んだ声に、瞼を開ける。
霞む視界が捉えたのは、月明かりを受けて煌く蒼銀と、暗闇に光る温かな金。
その姿は今のジルにはあまりに眩しく鮮明に見えて、胸の奥が熱くなる。
きれいだな、などと状況にそぐわぬことをぼんやりと思い浮かべてしまうほどに、その光景はジルの心に強く焼き付く。失意の中、その金の色は暗がりを照らす篝火のようで。
「理玖……良かった、無事、で……」
「僕のことはいいんだ。ごめん、遅くなって。
もっと早くに駆け付けられれば、良かったのだけど」
悔しそうに唇を噛む理玖の姿に、ジルの心の臓はぎゅっと痛む。
こんな時でも、こんな時だからこそ、彼の言葉は優しくて温かい。
地の底へと至るその前に、彼の優しさは確かにジルの腕を掴んでそれを妨げる。
それがどうしようもなく心を切なくして、けれどもあまりに温かくて、ジルの朦朧とした視界は溢れる雫で更に歪んでいく。
優しい人。彼が、彼だけだ。
こんなにも、悪に塗れたこの身を案じてくれるのは——
視界が歪むように、思考もまたうまく働かない。ただ、心配そうに揺れる彼の金の瞳に絆されるように、ジルはぽつりぽつりと言葉を口にする。
「……報いを、受けたんだ」
「うん……」
「お前が、言った通りだった。
オレがしてきたことは、やっぱり、悪そのものだった」
「……」
「オレは、ただ、赦せなかったんだ。
父さんを、母さんを、奪った悪人が、赦せなかったんだ」
「……うん」
「どう、したら、よかったのかな。どうしたら——」
視界を歪ませていた雫が、堰を切って溢れ出す。やがてしずしずと涙するジルに、理玖はまるで子どもに言って聞かせるように柔らかな
「きみは、本当に愛情深いひとだ。ジル。
だからこそ、道を踏み外してしまった。
今は、ゆっくり休んでくれ。それから、一緒にこれからのことを考えよう」
その声から滲む優しさに、胸が痺れるように縮こまる。
理玖の言葉の通り、自分に明日がくるかどうか、この傷ではそれすらも定かではない。
それでも、一緒に、と口にする彼に心を温かく包み込まれる。
振り払ったはずの手は、それでも臆することなくこうして再び差し伸べられている。
ああ、もし——もし、どうしようもないこの血塗られた魂が、願いを持つことを許されるのなら。
どうか、再び目を開けて、彼の手を取ることができる、その機会が訪れますように。
やがて、傷だらけの身体はその意識を無意識の海へと沈めていく。
最後にジルの蒼い瞳が映したのは、ジルを見守る優しいひとが、穏やかな月夜に浮かぶ美しい姿だった。