三章 罪を背負う者
1 ——Side:Gilles
雨が、降る。
それは、大地を潤す優しい雫。
けれど、炎を燃やすには、それの存在はあまりにも無慈悲だった。
ああ、消えないで、消えないで。
必死に薪を焼べる。心に灯ったその炎が揺らいでいる。
ああ、消さないで、消さないで。
その身で炎に天蓋を作る。炎の熱で身が焼けるように、熱い。
その身の天蓋の甲斐あって、炎が勢いを取り戻す。
燃えて、燃えて、やがて天蓋としていた身体へと、その熱は伸びて——
「ああ、あ——」
炎は、燃え上がる。
瞬く間に、天蓋としていた身体に燃え移って、煌々と燃える。
「ああ、あつ、い、熱い、熱い熱い熱い——‼」
その身すらも薪として炎は燃える。
耳の内側から響くように、誰のものともつかない低い音で、声が響く。
『——それが、お前の
大人しく、ただ降り注ぐ雨に打たれていれば良かったものを——』
「——っ‼」
はっと目を開ける。
夜明けには早く、カーテンから漏れる街灯の明かりで部屋は薄暗い。
静寂の中、妙に大きく響く時計の秒針の音で、時の流れを感知する。
じとりと纏わりつく汗が気持ち悪い。呼吸は浅く、鼓動が早鐘を打つ。
——厭な夢だ。脳を掻き回されたような不快さが残る。こんな夢を見ることなど、今まで無かったのに。
理玖と問答を繰り広げたあの日から、胸に蟠りが残って消えてくれない。表面上では、あの日の出来事をまるで無かったかのように振る舞ってはいるものの、あの時に理玖が差し伸べた優しさはしかし、ジルの中に暗い影を落として今も消えてくれないのだった。
本当に、あの時彼が差し伸べてきた手を振り払って良かったのだろうか。
自らに降りかかる報復など怖くはないとそう考えていたのに。今の今まで誰からも差し伸べられてこなかったその温情を前に、ぐらぐらと心が揺らいでいるのを、先の夢で自覚させられる。
己の正義を振りかざすただの糾弾ではなかった。理解できないものを見る畏怖でもなかった。
彼の意思の強い、温かな金色を思い出す。あんな目で見られたのは、生まれて初めてだった。
(考えるな……考えるな……——)
こびりつく悪夢を振り払うように、頭を振る。
どうにかして気を紛らわせようと、枕元に放り出されている携帯端末に手を伸ばす。
(……? 曜さんから……)
電源を入れて点灯したロック画面に、メッセージアプリの新着通知が浮かび上がる。深夜に届いたそのメッセージには、次の仕事の依頼についての内容が記されていた。
——近頃、都市南部の
よりにもよって、今最も避けたい内容の仕事だ。悪いことばかりが重なる状況に辟易とする。
とはいえ、掃除屋・キャットテイルの実働隊は自分と理玖の二人だけだ。理玖に一人で行ってこいなどと言うわけにはいかないし、そんな事を言うつもりなど毛頭無い。
(鈍ってくれるなよ、オレの身体)
自身の腕を窘めるように摩る。未だに身体の不快感は拭えない。
せめて、任務にあたる時までにはいつもの自分であれるように。
深夜とも早朝ともつかぬ暗闇の中、彼は呼吸を震わせるようにして深く溜め息を吐くのだった。
◆
「大丈夫か? ジル」
任務に向かう道中、そう口を開いたのは理玖だった。
「ん? 何が?」
「 ポーカーフェイスには自信があるつもりだったのだが、理玖の目利きはそれより一枚上手だったらしい。温かでありながらこちらを見透かすようなその瞳には恐れ入る。
理玖と問答を行った夜からこちら、それをする直前と比べれば自然に会話ができるようになってはいたものの、ただでさえ理玖は、以前の問答の後から明るくあろうと振る舞っているジルに対して、何かを察しているような素振りを見せているのだ。そんな彼にかかってみれば、ジルの些細な変化を掬いあげることは容易いことなのかもしれない。
全く、彼を前にしては気が抜けない。ともすれば困ってしまうほどに、彼は人のことをよく観察している。
かといって、素直に以前の会話を引き摺っているなどと言えるはずもない。
あくまで、自分は以前の会話については無かった、というように振る舞っているのだ。それについて口にするのは自分の行動と矛盾するし、あそこまで意地を張っておいて、今更不安で悪夢まで見ているなんて格好が悪すぎて到底打ち明けられない。
どうにかごまかそうと、少し頭の中で思案する。
結果、嘘ではないが真実でもない回答をすることを採択する。
「うーん、最近ちょっと寝不足でさ。
それでちょっとぼーっとしてたかもな」
嘘は、言っていない。以前の会話についても触れぬまま、悪くない回答ができたと自負をする。
果たして、うまくごまかせただろうか? と理玖の方をちらりと一瞥すると、彼は心配そうな表情はそのままに「そうか」と小さく返答をする。
「昼はパティスリーで働いて、夜は掃除屋の仕事をしているのだから、寝ている時間も惜しいかもしれないけれど……睡眠は大事だ。何か対策をした方がいいかもしれないな——」
そう言って理玖は指を顎に当てて思案し始める。
ほっと、胸を撫で下ろす。
どうにか気を逸らすことができたかもしれない。
……いや、どうだろうか。もしかしたらそんなことはなくて、理玖がこちらに気を使ってくれているだけという可能性もある。
どうにもあの日以来情緒が不安定で、未だかつてないほどに乱された心を取り繕うことに必死になっているジルは、もはや自分と周囲を俯瞰して見る余裕を失っていた。
理玖の横を歩きながら、ジルがもやもやと思案に耽っていた——その時、だった。
理玖が、はっと何かに気がついたように息を呑む。
「——! ジル 」
理玖の呼び声で我に帰る。
彼らの進行方向の先、閑静な住宅街の塀の影に見えたのは、黒いローブの魔法使い——恐らく異端者だ。
「どういうことだ……? まだ指定のポイントまで距離あるぞ」
「分からない。けれど今回の任務の内容として伝えられた外見情報と合致する——」
即座に臨戦態勢を取る。ジルが腰の槍に手を掛けると、異端者はその場から踵を返して走り出した。
「なっ……! 待て‼」
それを追って二人の掃除屋も走り出す。街を抜け、田畑が連なる田園地帯を駆け、見覚えのある風景の場所に辿り着く。
それはジルと理玖が初めて任務にあたった、カトラを追いかけて行き着いた山間地帯だった。
山に入るか入らないかというところで、異端者の男が立ち止まる。
ジルと理玖の二名もまた、それに合わせて間合いを残して足を止める。
一時の睨み合い。先に動いたのは異端者の方だった。
「——目標を確認。作戦開始。
対象外の排除を行う——
その指に嵌められた指輪が瞬き、異端者の背後に広がる森が怪しく発光する。
白色光の中より生まれ出ずるのは三体の亡霊。
鋭い爪を備えた獣の骸の形をしたその異形は、およそ生物の声とは思えぬ音で咆哮すると大地を蹴って二人に飛び掛かる。
三方向からなるその死の刃に、ジルは身体強化を用いて応戦する。
一閃、翻り、飛び上がった亡霊の下を潜り抜けつつ追い込むように刺突——その斬撃は踊るように。
次々に襲いかかる亡霊の殺意、その全てを、強化した感覚器で捉えて対応していく。死角から牙を向く亡霊は、後ろで控える彼の相方がその動きを封じることで猛攻を抑え込む。
これならば、問題ない。難なく対処できる。そう確信した瞬間だった。
異端者の指に嵌められた装飾が煌めく。
その
服従魔法——
「理玖‼」
ジルもまた、咄嗟に亡霊の後を追おうと踵を返す——しかし。
「っ⁉ なんだ? 壁……?」
目の前に現れた質量に進行を阻まれる。
これでは、理玖に加勢をすることができない。その魔法は
「その魔法を解除したければ、私を殺すことだな。
私に追いつくことが出来るなら、の話だが。
異端者の指が三度目の光を放つ。魔法によって収束した
「ジル! 僕のことはいい。彼を逃しては駄目だ!」
障壁の向こう側で、三体の亡霊を縫い止める理玖が声を上げる。
「でも、お前一人じゃ——!」
後方支援を生業とする理玖に、亡霊三体の相手は難しいはずだ。どうにかして向こう側に——ジルが障壁の突破を試みようと槍を構える——が、それと同時に、理玖がサスペンダーのポケットから何かを取り出して亡霊の足元にばら撒く。
「いいんだ、問題ない。
この程度の亡霊なら僕一人でも倒せる。
その反応で、ジルはばら撒かれたそれが火薬の類であることに気がつく。
爆発が直撃し、爆風に吹き飛ばされた亡霊の一体は、異端者が残していった障壁に強かに身体を打ちつけて蒸発するように消滅していった。
「この通りだ。なるべく早く片付けて追いつく。きみは彼を!」
「あ、ああ。分かった。無理はするなよ!」
こうして実際に亡霊を倒すところを見せられては、納得せざるを得ない。ここは理玖に任せて、自分は森に消えていった異端者を追おう。
後ろ髪を引かれる思いではあるが、それを振り切るように強化した脚力で森の中へと駆け出した。
————
多様な魔法を行使できたとて、付け焼き刃の物であれば、その一つ一つを極める者に敵う道理はない。
森の奥、木々の切れ間にあたる広場まで到達した異端者は、それを上回る速度で追跡してきたジルの槍に捉えられていた。
異端者の右腕を深く抉る槍の切っ先が、異端者の背を踏みつけるジルの右脚が、彼の身体を大地へと縫い付ける。槍の切っ先を飲み込む腕から漂う、鉄の匂いが一帯に充満していく。
——その香りで、ジルの中の炎が勢いを取り戻す。
彼の者は、悪人である。悪人は断罪されるべきである。
殺せ。彼らは許されざる生命なのだから——
槍を引き抜き、その切っ先を異端者の背、左側に構える。ここを貫いてしまえばその命は潰えるだろう。
理玖が阻まれている
目標に槍を突き立てようと、槍を振りかざした——その時だった。
「我らが同胞たちよ‼ 機は熟した! 今こそ憎き悪魔を地獄へと誘う時‼
我が血を以ていざ出でよ、悪魔を捕らえし檻よ‼」
ジルが槍を振り下ろすや否や、足蹴にしていた異端者が叫ぶ。
咄嗟のことに、槍の制御が間に合わない。
まっすぐに異端者の心臓に突き立てられた刃は、臓器を抉り潰して血飛沫を撒き散らす——それが、
「——っ⁉」
赤く染み渡る血を贄にしてジルの足下に紋様が浮かび上がる。
解き放たれたるは膨大な量の
ただの
人体にとって、それは多量に接種すれば猛毒に等しい。加えて。
身体強化の魔法。その魔法が身体に焼き付くジルにとって、異端者が残したその魔法はあまりにも相性の悪い物だった。