二章 赫き炎
4 ——Side:Gilles
少年が生まれたのは魔法使いの名家であった。
身体強化の魔法を受け継いできたその家は代々、
より濃い血を残すため、身体強化の魔法を導入した近親交配に頼ってきた家系であったが、少年の前の代、つまり、少年の父にあたるその代で、遂に近交劣化の翳りが現れ始める。
もはや、近親の間では子孫を残すことは困難である。しかしながら、親類以外から血を招いては名家の家系に汚点が残る。議論の末名家——テレストリアスの長老らが下した結論は、魔法使いの世が許しても、人の道には反するものだった。
それならば、
それが、彼らの取った採択だった。
『それでもいいわ。貴方の子だもの。
私は今、こうして貴方が私たちのそばにいてくれるだけで——それだけでいいの』
女は幸せそうに、我が子を宿した胎の上に手を滑らせる。
男はそれを、苦悶の眼差しで見つめることしかできない。
男が家からその方針を伝えられたのは、女が少年を身篭って安定した頃のことだった。
彼は家に対して、魔法使いの名家でありながら交際について放任的だったことに感謝していた。
真実を知ったその時、ただ良いように泳がされていただけだったというその惨酷さに、愕然とした。
女が夜な夜な独りで泣く姿を盗み見るその度に、己の浅はかさに絶望したのである——
かくして、少年は誕生した。役目を終えた、母の命と引き換えに。
少年が全てを知ったのは、彼の父が自害したその後のことだった。
幼少のみぎりに誰にも内緒で父と埋めた、
父の葬儀の日に開けたそれに紛れていた、父がしたためた手紙の中に、真実は隠されていた。
『こんなことを言っても、信じてもらえないかもしれない。
けれど母さんは、お前が産まれてくることをとても楽しみにしていた。
父さんはお前が初めて歩いたとき、涙が出るほど嬉しかった。
家の思惑がどうあれ、私たちはお前をとても愛していた。
だからこそ、耐えきれなかった。
母さんが、そばにいないことが、どうしても。
置いていってすまない。どうか、お前が歩む道に祝福があらんことを』
遺された少年はただ一人、もう手が届くことのない両親の愛に涙した。
涙が枯れるまで泣いたあと——空虚になった彼の心に、一つの想いが燻り始める。
——己の欲望のままに他者を害する者は皆、悉く苦しみの内にもがいて死ね。
無垢な少年の内に育つ、暗く、故に赫く燃える炎。
純粋な恋で結ばれた両親。子孫繁栄のために、弄ばれた者たち。
母は、どんな想いで死んだだろう。
父は、どんな想いで死んだだろう。
彼らだけが苦しみを背負わされたまま、彼らにそれを与えた者たちは、のうのうと生き永らえている。
赦されるものか。例え誰が赦したとて、オレは赦さない。
己の欲のままに他者を害する、この世の悪しき人間を赦さない。
いつしか、自分の手で断罪してみせる。
彼の中に燃える炎。未だ燃え盛る、少年の生きる標。
それこそが、彼が悪人を惨殺する動機の全てである。
————
しん、と静まり返る店内。
ジルが全てを語り終えて目の前の理玖の姿を見やると、沈痛な面持ちですっかりぬるくなったコーヒーに視線を落としていた。
面白い話でなかったのは確かだ。彼の反応も仕方のないことではある。
しかし、こうして他人に話す機会など無かったものだから、その反応がどうなるものか想像したこともまた無かったのである。故に、理玖の反応に若干の気まずさを感じてしまう。
何か適当にはぐらかそうと言葉を選んでいると、やがて理玖が口を開いた。
「それは……悲しいな」
ぼそり、とこぼれ落ちたそれは、静寂に包まれた店内でなければ聞き逃していたかもしれない、呟き。
何か言葉をと泳がせていたジルの視線が、再び理玖に注がれる。
「……悲しい、か。それは——」
自身に覚えがあるなりに、理玖の言う「悲しい」がどこに掛かっているかを掴みあぐねる。
しかし、彼が
彼が何に対して悲しみを感じているのかは分からないが、どんな言葉が返ってこようときっとそれに動じることはない。
じっと理玖の言葉の続きを待つジルの思考は、妙に落ち着いていた。
やがて、言葉を選ぶように視線を彷徨わせたあと、理玖がゆっくりと先ほどの続きを口にする。
「きみときみのご両親が辛い目に遭ったこと自体、とても悲しいことだと思う。けれど、それに加えて——きみの断罪の根底にあるものが、他でもないご両親への深い愛情なのではないかと、僕にはそう思えてしまって」
それは、ジルが予想していたものとは違う切り口の憐憫だった。
思ってもみなかったその言葉に、ジルは思わず瞳を大きく開く。
それはそうであるのだ。ジルの家の事情については、魔法使いの世においてはそう珍しいものではなく、気遣いのできる魔法使いですら「そういうこともある」という当たり障りのない反応が返ってくるのがせいぜいであるからだ。ごく普通の魔法使いならば「そんなことで」と切り捨ててしまうだろう。
魔法使いの一族において、それに属する人間は家の財産だ。
故に、こうして理玖のように、一般人に近い感覚で人命が切り捨てられたことに心を痛める魔法使いの方が珍しい。そして、それはジルにとってあまりに新鮮で、ぐらり、と心を揺らされる感覚を覚えてしまう。
——ああ、彼は、自分の断罪を理解してくれるかもしれない。
或いは、それを容認してくれるかもしれない。
しかしてその淡い期待は、その後の理玖の発言によって打ち砕かれる。
目を伏したままだった彼は、おもむろに視線を上げてジルのそれに合わせた。
「もしそうなら、きみの行いは復讐だ。復讐は新しい悲しみを生み、何も戻らない。
きみの愛情はかけがえのないもののはずなのに、それが復讐に焼べられてしまっていることは、どうしようもなく悲しい」
その発言に、揺れていた心はすとんと確かな重さをもってジルの中に落ちる。
復讐——その炎をそのように言及されたことは、実は今日が初めてではない。
かつて、近縁の親類にもその行いを復讐と糾弾されたことがある。一族の名に傷をつけるその行為を即刻やめろと、眉の一つも動かさずに冷徹に言い放った彼のその顔を思い出す。
彼には、ジルの悲しみなど分からない。それは彼がまっとうな魔法使いであったからに他ならず、ただ理解できないなりに、両親を奪われたその事実だけを汲み取ってジルのそれを復讐と断じたのだった。
彼と理玖とに異なることがあるとするならば、理玖はその復讐を悲しいと言及していることだ。それはジルの愛から成るものだと。それが、どうしようもなく悲しいと。
けれど、結局同じ結論に至るのであれば、理玖も彼と同じだ。
この炎が燃え盛る復讐心であることなんて、とっくに理解している。
穏やかに返りかけていたジルの表情は、再び歪む。
「そんなことは、分かってるんだ。
だけど、燃え盛ってしまった復讐心は簡単には消し去れない。
家の連中だけじゃない。いつだって悪人は、相手の都合なんて考えもしないで誰かを傷つけ続ける。
それを放っておくなんて、オレには到底できやしない……!」
言い捨てるジルに、理玖は先ほどとは打って変わって、真っ直ぐにジルに視線を留めて言葉を告げる。
「——きみはとても優しい人だ。ジル。
さっきは止める意図は無いように言ったけれど、きみの尊厳を守るために、敢えて言わせてもらう。
それでも、個人が断罪を行うことは避けるべきだ。
僕に言わせるならば、そうした悪人のためにきみがその手を罪に濡らすことこそ、容認できない悲劇だと断言できる。
それでは、彼らと同じになってしまう。いずれ、同じように報復を受ける」
理玖の射抜くような視線に押されぬよう、ジルは唇を引き結ぶ。
……わかっている。わかって、しまった。
理玖の言葉の端々から滲む、それは一方的にジルを糾弾した親類の彼のそれとは違う。
あの夜に、ジルのことを何も知らぬままに糾弾した、あの時の理玖とも、また違う。
彼は、ジルの身を案じている。
ジルの過去と想いを受け取ったうえで、ジルが持つ、愛を焼べて燃えるその復讐の炎が、いずれジル自身の身すらも燃やしてしまうかもしれないその悲劇をただ、案じている。
ジルの想定以上に、近衛理玖という人物は心の優しい人間であったのだ。
普段冷たい雰囲気を纏う彼が、こんなにも誰かの心に寄り添おうとする人間だなんて思いもしなかった。
それでも、今更後戻りなどできない。する気もない。
それに、どんなにその心に思いやりがあったとて、ジルの標を奪い取ろうとするならば同じだ。奪わないでくれ。愛する者を失った世界で生きていくために、どうしたって必要な、たった一つのその標を。
やがて、理玖のその金色の視線から逃げるようにそれを落としながら、ごちるようにジルは呟く。
「……結局、オレの断罪を糾弾して、標を取り上げようとするなら、お前もあいつらと同じだ。
オレがそれを拒んだそのあとは、どうせ怪物でも見るように突き放すんだろ」
苦し紛れに吐き出したそれで、むしろこちらから彼を突き放す。これ以上、彼と話していたくない。
彼の優しさが、温かな雨のようなそれが、己の標を掻き消してしまいそうで、堪らなかった。
けれども、そんなジルの想いを知ってか知らずか、理玖は変わらず意思の強さを纏った
「突き放さない。きみが罪を重ねることを、僕は容認できない。
きみがこれからもなお断罪を繰り返すというのなら、僕は何度でもきみを止めよう。
きみのそれは本来尊ばれるべきものなんだ。
悪人なんかに、穢されてはいけない」
——どうして。
どうしてそんなにも、頑なにそばで、寄り添おうと手を伸ばしてくるのだろう。
いっそのこと、これまで周囲がジルにそうしてきたように、ジルの赫い炎に怯えてくれたなら良かった。
誰かに手を差し伸べられることが、こんなにも恐ろしいことだなんて、思ってもみなかった。
この手を取ってはいけない。亡き両親に報いるためにも、自らの標を失わないためにも、絶対に——
飲みかけのコーヒーを残したまま、ジルは席を立つ。
理玖が声をかける隙を与えず、静かにジルは唇を開いた。
「お前がどうしたって、オレは断罪を止めたりしない。
じきにあいつらみたいにお前も諦める。その時が来るまで、好きに動けばいいさ——」
吐き捨てて、荷物をまとめて店を後にする。優しい雨のような彼から逃げるように、足早に。
今日のことは、早々に忘れてしまおう。次に彼に会う時は何も無かったかのように、いつも通りに。
そう、移籍前の日々と同じだ。そうすればいい——
今宵、理玖と話す前には無かった大きな蟠りを胸に抱えたまま、ジルは自宅へと足を向かわせた。