二章 赫き炎
3 ——Side:Riku
その後、あの夜。
理玖がすんでの所で押し止めたことで、ジルは納得のいかない表情を浮かべながらも引き下がり、死を免れた異端者たちは
あれ以来、理玖はジルとこれまでのように自然な会話ができなくなっていた。
ジルは普段通りであるかのように明るく振舞ってはいるのだが、二人の間にあるぎこちなさは、どうしたところで拭えないでいた。
その後も数々の任務をこなしてきたが、必要最低限の確認に一言、二言言葉を交わす程度だ。幸か不幸か、そんな状況でも二人の連携は錆び付くことなく機能してしまうのだから、それ以上の言葉を交わす必要性は見失われていた。
異端者が絡む任務では、ジルは変わらず彼らに惨酷な仕打ちを与えようとする。都度理玖が止めなければ、彼の槍は異端者を屠らんと血濡れ続けるのだった。
そんなある日、曜がそんな彼らを見兼ねて口を開く。
「君たち、これからもそのままでいるつもりかい?
困るなあ。たった三人の掃除屋なのだから。
よし、今夜はきちんと話をしてもらおうかな。
とっておきの豆を挽いてあげよう! 特別だよ?」——
その日の夜のこと。閉店後のパティスリー・猫巻——
店外の扉には『CLOSED.』の看板が下がっているが、店内にはまだ照明がついたまま。
本来ならば閉店後の業務が行われているはずの時間だが、この日は普段と状況が違った。
店内のイートインエリアの一席には、曜が淹れたコーヒーと売れ残りのケーキが二人分。それぞれ、向かい合うように配置されたそれを挟むように、理玖とジルは席に着いていた。
ジルはあたかも『いつもの自分』であるかのように、ミルクが漂うコーヒーにスプーンを差し入れて掻き回している。
けれど理玖にはわかっていた。今の彼は、あれ以来対応がぎこちなくなってしまう理玖との間に、距離を置いている。出来ることならこの状況だって、避けたかっただろうということは推測できる。
あの日。この世の地獄、といって差し支えない惨劇が作り出された夜。
彼のした事は許されるようなことではない。と、理玖は今でも感じている。
けれど、あれからしばらくの内に理玖の中に募ったのは、彼を知ろうとしなかった己に対する自責の念。
それこそが、理玖の心に降り積もった一番の想いだった。
せめて、自分があの時気を失っていなかったなら、或いはもっと早くに彼を止めることができていたかもしれない。
彼に対する『何故』という気持ちが、あまりに冷酷無比で無慈悲なジルの発言によって『憤り』に塗り替えられなければ、彼を突き放したままここまで引き摺らずに済んだかもしれない。
思い返してみれば、自分は彼の行動の背景にあるものを何も知らない。知りもしないで、彼を罵倒した。ただ感情のままに突き放した。あの朗らかで、優しくて、太陽のような笑顔が似合う
ただ悪人を厭うというだけにしては、彼の
今こうして理玖がジルと対面できているのは、そんな想いを察した曜の機転のおかげだ。
彼とこうして向かい合う直前に、彼女は理玖だけにそっと耳打ちをした。
『後悔するなら、彼と直接、素直な心で話しなさい。
その上で、君の感じた一番の気持ちを彼に伝えたらいい』
そう諭して送り出してくれた本人はというと、コーヒーを出すなり、さっさと店の二階部分に位置している近衛家の居住スペースへと引き上げてしまったのだが。
「……それで、何か話すことなんてあるか?
この前のことなら気にするなよ。たまに言われてたんだ。
まあ、最近では滅多に触れられることも無くなってたんだけど」
ジルはスプーンをソーサーに置いてカップに口をつける。その動作を眺めながら、どう切り出したものか、と思考を巡らせる。このまま手をこまねいていては始まらない。
やがて、
「いや、きみの事情も知らないで、軽はずみだった。
やったことは許されることではないとは思うけれど、公正じゃなかった」
コーヒーを啜るジルの動きが止まる。
先ほどまでそれとなく他所を向いていた視線が、理玖に注がれる。
カップをソーサーに戻すと、探るような面持ちでジルもまた再び口を開く。
「……
「うん。
僕はあの場で気を失っていて、きみを止めることもできなかったし、そもそも、きみがああいう行動を取る理由すら知らないままに、きみのことを蔑んだ。
それはあまりに一方的で公正じゃない」
なんとなく視線を合わせる勇気が持てず、テーブル上のケーキに目線を据えながら、理玖もコーヒーをひとくち口に含む。
気を確かに。己を叱責する。ここから先をちゃんと言わなければ、お互い蟠りを残したままになってしまう。
理玖にとって、彼ほど距離感と連携が噛み合う人物は初めてなのだ。このまま彼との間に軋轢が生まれてしまうことは、できることなら避けたかった。
覚悟を決める。視線を、彼のそれに合わせる。
ジルの表情は、依然探るようなそれのままだった。
「だから——きみがそうした理由を知りたい。
きみがああいうことをするというのには、多分、尋常じゃない理由がある気がするから」
一瞬の、沈黙。握った手のひらに、汗がじわりと滲む。
やがて、ふう、と一つ呼吸を落としたあと、ジルが固く結んでいた唇を開く。
「……知ってどうするんだ」
「え……?」
思わぬ返答に、口から間の抜けた音が溢れる。
返答した本人はというと、どこか冷ややかな雰囲気を纏ってこちらを見据えていた。
「知ってどうするんだ。
お前がオレのことを知ったところで、オレのやることは変わらない。
オレは、自分の利益の為に他人を害する者を——悪人を許せない。
苦しんで苦しんで、絶望に堕ちながら死ねばいいと思ってるし、そうなるように仕向け続ける。
結局、お前が望むような結果にはならない」
どこまでも冷徹に、あの夜感じたナイフの切っ先を思わせる冷たさで、ジルは吐き捨てる。
まただ。普段の明朗な彼からは想像できない表情の彼がここにいる。
一体、何が彼をここまで歪めてしまったのか——
加えて言うならば、彼は何か誤解をしている。
今この場で理玖が求めるものと、彼が考えるそれには相違があるように感じられた。
そうじゃない。今はきみを頭ごなしに責めたいんじゃない。
どうしたら伝わるだろう。
『彼と直接、素直な心で話しなさい。
その上で、君の感じた一番の気持ちを彼に伝えたらいい』
直前にかけられた曜の言葉を思い出す。
素直に、一番の気持ちを。
彼の冷ややかな雰囲気に呑まれないよう、瞳を閉じてふうと息を吐く。
そして再び理玖は視線を上げた。
「それなら、今はそれでもいい」
「は——」
「今、僕が望むのは
抱えているものがあるのなら、僕にもそれを分けて欲しいんだ。
一人で何かを抱え続けるのは……辛い事だから……」
「————」
暫しの沈黙。時計の秒針の音だけが、静まりかえった店内に響く。
冷たく凍りついていたジルの表情は、理玖の言葉を受け、しばらくの間呆気に取られたようにぽかんと口を開いた状態に変わっていた。
やがてその口元はゆっくりと緩み、笑いが口から溢れる。
「ふ、ふふ……ははは……!
あー、いや、ごめん。そんなこと言われたの初めてだ」
未だおかしそうにくふくふと笑うジルの表情は、先ほどと打って変わって穏やかだった。
いつものジルだ。
何故笑われているのかも分からないまま、理玖はぼんやりとそんなことを考える。
一頻り笑うと、ジルは、はあと息をついて蒼い目を細めた。
「分けて欲しい、か。まさかお前からそんな言葉が出てくるなんてな。
オレの行動に説教するヤツはいても、そこから更に踏み込んでこられたことは今まで一度も無い。
お前は優しいヤツだよ、理玖。オレが会った人間の中でもトップレベルだ」
「それは……対人運が無さすぎると思う」
「はは、そうかもな」
なんにせよいつものジルに戻ってくれて良かった。と理玖は胸を撫で下ろす。
やっぱりジルには笑顔が似合う。あの夜に見せた冷酷非道な彼には、できるだけ変貌しないでほしい。
けれどそういう訳にはいかないのだろう。
ここから先、彼の口から語られる蟠りが彼を突き動かす限りは。
「いいよ。お前になら聞いてもらっても構わない——オレが、悪人を許せない理由を」