一章 キャットテイルを追いかけて
3 ——Side:Riku
「——ナァーン……」
「にゃー……」
「………」
森に入って十数分。
鈴の指し示す方角とカトラの鳴き声を頼りに、日が沈みかけてすっかり暗くなった森の中を進む。
前を歩くジルがちらちらと、その後を追う理玖の様子を伺ってくる。
先行すると言った以上、前を見ていた方がいいのでは? 後ろに何か気がかりでもあるのだろうか?
理玖が怪訝に思っていると、ジルは遂に痺れを切らしたかのようにこちらに向き直る。
「あのさ……なんで、お前も、猫の鳴き真似してるんだ?」
じとりとした視線を向けてくるジルに、理玖は疑念を覚える。
「猫を誘き寄せる時は鳴き声を真似したほうが効果的じゃないか?
カトラはいつもそれで寄ってくる」
「いや、お前って、意外と……あ、いやうーんそうか、なら仕方ないな……」
困惑を隠せないでいる彼の本意とするところが、ますます理解できない。
もしかして、自分は何かおかしなことをしているだろうか? などとぼんやり考えていると、ジルの背後、つまり、進行方向の茂みががさがさと音を立てた。
「!」
「えっ、まさか……」
チリチリ、という金属のぶつかる小さな音と共に、茂みから白い何かが飛び出す。二人の目の前に姿を現したのは、真っ白で、ふさふさとした毛並みを蓄えた——
——異形の生物だった。
それは期待していたものとは違う招かれざる相手だったが、こうして会敵してしまった以上は放置するわけにはいかない。掃除屋・キャットテイルとしては初任務であっても、以前に別の掃除屋で任務にあたっていた彼らの反応は、素人のそれとは比較するよしもなく機敏だった。
「ッ! 亡霊か! ——
ジルは咄嗟に、腰に装着した短い棒を手に取る。
それは呪文を受けて長く伸び、先端から鋼の切っ先が現れる。
理玖もまた、ジルの戦闘を支援するために亡霊を視認しようと目を凝らす。
豊かな体毛に覆われ、それが亡霊の本来の身体を覆い隠し、目眩しの役割を果たしている。
こんな亡霊はこの地域では見たことがない。本来亡霊という生き物は、骸のような姿をしているはずだ。それがなぜ、動物のような毛を有しているのか——?
いや、それは今は考えても詮無きことだ。相手を倒すことに専念しよう。
改めて敵を観察したところであることに気が付く。亡霊の身体の上部に、見知った別の生物を視認する。
「ジル、カトラだ! 奴の頭上にカトラが捕まっている!」
「なんだって……⁉ それは、面倒だな……!」
どうやら、直前に聞こえた鈴の主は彼女であったらしい。
亡霊の毛に絡まっている状態のカトラは、怯えてはいるが、幸い頭頚部は無事なようだ。であれば窒息の心配は無いだろう。まずはそこに安堵する。
それでも、カトラが捕まっているという状態では、無闇に敵を攻撃するわけにもいかない。応戦しようと相手が動けば、誤ってカトラを傷つけてしまう危険性が高くなる。どうすれば——
——睨み合う両者。
勝ち筋を探る理玖の頬に、ぱた、と雫が降り落ちる。
それは次第にその数を増やし、やがて雨となってその場をしとどに濡らす。
雨——水——そのヒントを得て、理玖の脳裏に一つの勝ち筋が閃く。
上手くいくかはわからないが、それでもやってみないことには始まらない。自分と同じように敵を見据えたまま硬直していたジルに声を掛ける。
「ジル、きみの槍で、木を切り倒すことはできるか?」
「木……? そんなの朝飯前だが、どうするんだ?」
「奴を取り囲むように、木を切り倒して欲しいんだ。
できるだけ、隙間を作らないように」
ジルは未だ、理玖の思惑が理解できていないようだったが、何か作戦があるのなら、と頷いてみせる。
「オーケー。なんだか分からないが、やってみるか!
木を倒している間、アイツを足止めできるか?」
「足止めは得意だ。任せてくれ。
くれぐれも、奴の頭上に木を倒さないよう気を付けて」
今一度、一抹の睨み合い——
先に動いたのは亡霊の方だ。痺れを切らしたかのようにそれが吠え、一歩足を踏み出したのを合図に、ジルもまた泥濘みはじめた地面を蹴った。
「
その呪文は彼の筋力を増幅させる。
疾風のように地を駆ける体躯から繰り出されたその一閃は、周囲の木をなぎ倒し、亡霊の身体の側面を塞いだ。
ジルを捉えようと、亡霊はその大きな身体を捩る。
側面に倒れた樹木から距離が離れる前に、亡霊の視界の外で金の瞳がその足元を捉えた。
「
金の瞳に捕捉された泥濘。
たちまち泥は魔法により硬化し、その足を繋ぎ止める。
「やるな! それなら、こっちもやることやらないと……なッ‼」
理玖の魔法を初めて目の当たりにし、高速の移動を行いながらジルは感心したように歓声を上げる。
その働きに応えようと、一閃、また一閃と瞬く間に翻る刃。闇夜に軌跡を残すその閃光は的確に樹木を切り倒し、亡霊の四方を覆う。それはさながら樹木で造り上げられた壁のように、高々と亡霊の周囲に聳え立った。
「これだけあればなんとかなるか……⁉ 頼むぞ、理玖!」
ジルが声を掛けるか否や、というその刹那、理玖の金の瞳は亡霊の足元ではなく、別の対象を捉える。
倒された樹木、今もなお降り続く雨——その魔法は、この場にある全ての状況にあって初めて成立する。
切り倒された樹木の壁の奥、亡霊の存在するそこは、もはや樹木という壁で形成された
「
降り続く雨を零さぬよう、木と木の隙間を凝縮した
これで準備は整った。しかし、まだ足りない。
理玖が思い描いたその勝ち筋は、大量の雨水を以て初めて完成する。
故に、箱の中に神経を集中させていく。
雨よ、水よ、箱を満たせ。
ただ降り積もるそれだけでは足りないのであれば、
「
呪文とともに重力を失った無数の雨粒は、その瞳が
密閉された箱の中、鋭き針のごとき勢いで収束する雫。
揺蕩う水は亡霊の身体を掬い上げて渦巻き、悪性を溺死させるには充分な量で満たされる。
超常から生まれ出でたとしても、亡霊とて星の理に縛られる生物である。
海上で発生する亡霊ならばいざしらず、陸上で生まれたものであればそれと同等の弱点を有する。
しばらく藻掻くように暴れていた敵性生物は、やがて抵抗する体力すらも奪われ力なく水面に漂い——そのまま霧のように掻き消えるようにしてその存在を消滅させた。
「——おっと!」
亡霊が消える間際、水面に落ちそうになるカトラをジルが回収する。
混乱して暴れる彼女をなんとか押さえつけながら、彼は理玖の元に着地した。
「お疲れさん! まさか雨水で溺死させるとは!
作戦、上手くいったな……と、言いたいところだけど。コレどうする?」
苦く笑いながら、ジルは理玖が未だ押し留める大量の雨水を見やる。
「問題ない。集積したのなら分散させればいいだけだ。
理玖の呪文を受けて、なみなみと揺らめく雨水は蒸発するかのように散っていく。
——その魔眼に紐づけられた魔法は『拡散収縮』の魔法。
その瞳が
「とても簡単に言ってしまえば、僕の魔法は
とはいえ、より元素に近しい構造のものしか操作できないのだけど」
例えば、ヒトの身体のような複雑な構造体は操作することができない。
水や
「なるほどな。自分で大きなダメージを与えるというわけじゃないのなら、戦闘で扱う場合どちらかと言うと支援型の魔法なわけだ。
前衛に出て戦うオレみたいなのとは相性が良いかもしれない。
もしかして、曜さんはそれも見越してオレをスカウトしたのか?」
「さあ、それはどうだろう。
ちゃんとしているようで、いい加減なのが
暴れるカトラを引き渡されながら、理玖はジルが問いかけた曜の思惑について曖昧な言葉を返す。
彼らが引き合わされたのは彼女の計画通りかもしれないし、そうでないかもしれない。
それくらい、よく分からない人物なのだ。近衛曜という人は。
「ま、どの道相性は良さそうだってことが分かって良かった。
お互いの能力も把握できたし、実りのある良い仕事だったかもな。
さ、帰ろう。腹減ってきたー。なんか買ってこうぜ」
ひらひらと手を振りながら、ジルは来た道を戻ろうと踵を返す。
彼の言うように、互いの能力を確かめられたという点では実りのある仕事だったと言えるかもしれない。こうして、カトラも救出できて言うことなしだ。
何より——彼は自分の過去に過干渉をしない、と思えたことが、理玖にとって大きな収穫だった。彼の笑顔は決して身を焼くようなそれではなく、温かく、心地の良いものだ。
曜が引き合わせてくれた相方が、彼で良かった。改めてそんなことを思いながら、理玖は遠くなっていくジルの背中を追いかけた。