Season.01 罪負う少年と贖いの標

断章・3 水月に想う

 ——Side:Gilles

 地上にあって揺らめく水月のようだと、そのように思っている。

 彼の瞳と温もりに焦がされて、隣に立つ凛とした姿に心を攫われて、けれどその全てを掴むことはできなくて——手を伸ばせばすぐにでも触れられる距離にあるのに、掬おうとすれば歪み、溶け消えてしまいそうな危うさを秘めている。
 故に、月とあっても、遥か彼方のソラに浮かぶそれではなく。
 地上、すぐ傍らにその影を映す水面の月、という表現こそきっと彼には似合うだろう。

 ——それでも、触れたいと思った。この身を焼く熱量、それもまた一つの動機でありながら、彼が持つ心の重荷の影を知ってしまったその時から。
 月がこの星にその美しい姿だけを見せるように、その裏側に持つ数多の傷を見せぬように。
 彼もまた、他人には見せない傷を負っている。それであるならば、自分はその傷を労わりたい。
 彼が自分の傷に触れてくれたように。彼の心を救いたいと、そう願ったのだ。

 ————

 ——夜も更けた、数多の生命が寝静まる頃。冬の森。枯れ落ちた葉が大地を覆い、丸裸となった樹木の列の頭上には満天の星が夜の帳を飾る——そんな、夜。
 二人の魔法使いは、元締めから伝え聞いた星の悪性を葬り、その地に本来あるべき静寂の時間をもたらす。

 今回の任務はこれで完了だ。構えていた槍に通わせていたエネルギー・外気マナを解き放つと、槍は短い棒へとその姿を変えた。
 戦いの最中に駆動した身体が熱を持つ。荒くなった呼吸を整えながら、ジルは共に戦い、サポートをこなしてくれた相方の方へと振り返る。

「お疲れさん! 理玖。
 今夜もどうにかなったな」

 ジルが声をかけた暗がりの向こうから、細身の少年が姿を現す。
 月明かりを受けて白色に輝く蒼銀の髪。彼もまた乱れた心拍を落ち着かせようと胸に手を当て、やがてジルの横へと並び立った。

「うん。ありがとう、ジル。
 きみが突貫してくれたおかげだ」

 魔法を行使して間もなく、薄らと未だ光を残す金の瞳を細めて、彼は——理玖は微笑む。
 穏やかな表情だ。かつての冬の冷気は、時間を経ていくごとに彼の周囲から融け消えていっている。
 きっとそれは、その心に触れたいと、支えたいと、ジルが彼に告白したあの日から、次第に変化していった彼の心の裡を表しているのだろう。

 自惚れだと言われても構わない。実際に彼がこうして、穏やかな微笑みを湛えられるようになったのであれば、それでいい。
 理玖のその笑みにジルが見惚れていると、やがて理玖は何かに気が付いたようにはっと目を丸くすると、さっと左の手をジルの目前に突き出した。

「? どうし……」
「失礼……ッ、くしゅ」

 そしてその顔を逸らして、小さくくしゃみをする。

 漆のような黒の手袋で覆われた手のひらで腕を擦るその仕草に、ジルは彼の身体が冬の冷気に凍えていることを悟る。

「大丈夫か? 寒いよな、そりゃそうだ。もう11月だもんな。
 着てきた上着はどうしたんだ?」
「ああ……今回は、複数の敵に囲まれただろう?
 目くらましに使ってしまって、それはもう使い物にならなくなってしまった」

 そう言って理玖が指さしたその先には、敵に引き裂かれ、踏みつけられて襤褸ぼろと化してしまった彼のコートが地面にへばり付いている。 「師匠せんせいに怒られてしまうな」と困ったように鼻尖を抑える理玖は、それも束の間、再度顔を背けてはくしゃみをした。
 コートを襤褸ぼろにしてしまったことより、体調管理を疎かにして風邪でも引いた方が、理玖の師たる近衛曜という魔女はよっぽど怒るだろう。無論、曜の怒りを思わずとも、ジル自身、理玖が体調を崩して伏せってしまう恐れを無視するつもりは毛頭ないのだが。

「曜さんのことはともかく、そのままだと風邪引くだろ。
 オレのを貸してやるからさ、家に戻るまで羽織ってろよ。
 戦いのあとだし、変な匂いとかするようだったら、無理にとは言わないけど……」

 ジルは、自分が着ている目が覚めるような赤いジャケットをおもむろに脱ぐと、それを理玖の肩に掛ける。ファーがついているぶん、いくらか防寒の効果は期待できるだろう。
 若い男が同性かつ同年代の少年に自分のジャケットをかけてやる、というのも傍から見たらどうなのだ、と冷静な自分が突っかかるが、そんなことはどうでもいい。ここには自分と理玖のふたりきりだし、何より彼は自分にとって、ただの同世代の男・・・・・・・・という括りで片付けるにはあまりに特別で、大切に扱うに値する人物に違いはないのだから。

 それこそ——性別など大した問題ではないくらいには。

 けれど理玖は、きょとんと呆けた顔をして見せたあと、慌ててそのジャケットを脱いでジルに突き返す。

「だ、だめだ。それではきみが風邪を引く。
 僕に施しをした結果きみが体調を崩すなんて、そんなこと僕は容認できない。
 それに……きみは一人暮らしだろう?
 一人でいる内に熱が出たらどうするんだ」

 全く、どこまでも利他的な性格をしている。
 ジルにとって理玖のその優しさは、彼を想うその要因の大部分を占めるものでありながら、逆に心配になる部分でもある。いずれその優しさが、理玖自らを滅ぼすようなことにでもならないか——いや、今がまさに、そのような状況なのかもしれない。自分は風邪を引いても、ジルにはそれをさせまいという自己犠牲が、今の彼には見え隠れする。
 困った奴だ。小さく息を吐いて、ジルは突き返されたジャケットを手に取ると再度理玖の肩に掛け、そのまま彼の肩を掴んでその金色の瞳を覗き込んだ。

「それはオレも同じだ。
 何度もくしゃみしてるお前を放置して、風邪なんか引かせられない。
 もしオレが風邪を引いたら、その時は家まで看病しに来てくれ。
 それでチャラだ。な?」

 ぐっと掴んだ肩に力を込めると、理玖は所在なさげにその瞳を彷徨わせたあと、観念したように視線を下方へと下げた。

「うん……ごめん。ありがとう」
「ん。分かればよし」

 躊躇いがちに感謝の言葉を口にする理玖に、ジルはその身体を抱き込んで背をそっと撫でる。

 腕の中に収まっている彼のその体温は、戦いの中で熱を持ち、いつもより僅か高温のように感じられる。もしかしたら、彼が冷気に凍えたのも体温の上昇が関係しているかもしれない。 火照った身体を冬の外気に晒していては、それは風邪を引く。ジャケットを貸したのは正解だったようだ。
 その結論に帰結すると同時に、彼を抱き込むジルの心の裡には温かく疼くような幸福が広がる。

 ——水に映る月のようだと、そう思っている。

 いや、そう思い始めたのはつい最近のことではあるのだが。彼と付き合っていくこれまでの日々の中で、彼という人物はそのように形容できるのではないかと、そう感じ始めたのだ。

 掴みたくともその心は、この手のひらをすり抜けようとする。
 自らの傷を露呈させないため。
 自らが抱える重荷を悟られまいとするため。
 朧に水に揺蕩う、月の幻影のようだと。そのように。

 かつてはそれのみならず、ちょうどこの一帯を包む冬の空気のように冷たい気配を纏って、触れることさえ許さないような、そんな在り方をしていた彼。
 彼の全てを手にしたとは言わない。言えないだろう。
 未だ理玖は、己の罪を悔やむが故に、人の温もりを受け入れきれぬが故に、水月のその有様を崩さずにいる。少なくとも、ジルにはそう見える。懇願するように助けを乞うてもまだ、言葉の通りにその身全てを預けることを怯えているように、見える。
 けれど、彼と乗り越えてきた数々の艱難辛苦の果てに、今はこうして、彼の身体に触れることを許されている。

 理玖の心に巣食う暗い過去が、他者との接触を彼に拒絶させている中、自分は、自分だけは彼に触れることができる。
 月影揺れる水に手を差し入れた時、その波紋で影が揺らごうと、最後にはその手の中に輪郭を取り戻すように。

 この手の中の月を、抱き留めておける、幸福。
 不安定なその美しさが、この心に火を灯す。

 かつての暗い感情を薪とする全てを灼くような炎ではなく、穏やかで、温かな篝火のような火。
 守りたい。その全て。
 彼に触れることを許されたその信頼を、この身に宿る燃える火を。
 それこそが今、ジルが生きるための寄る辺——しるべたるもの。
 何より優先すべき、温かな彼の心核なのだ。

「……ジル、そろそろ、帰らないと……」
「ん? あ、ああ。そうだな。悪い」

 己の腕の中にある幸せを噛み締めていたジルを、遠慮がちな理玖の言葉が現実に引き戻す。
 身体を離して今一度理玖の肩に掛かっているジャケットを掛け直してやると、彼は小さくふふ、と眉尻を下げて微笑んだ。

「どうしたんだ?」
「いや……あれから・・・・きみは本当に、僕に触れてくることが増えたな、と思って」
「そ、そんなことは……! なくもない、けど……!」

「いいんだ、咎めたいわけじゃない。
 きみが思ったよりも甘えたがりなのだと分かって、少し興味深いと感じただけだ」

 言って、理玖はジルが掛けたジャケットの端を摘んで踵を返す。

「帰ろう。上着をありがとう。
 少しの間、借りさせてもらおう」

 ふわりと笑ってみせるその姿に心の臓を掴まれる。

 朧な水月、と比喩していたその儚げな印象に近い、冬の華のように綺羅とした柔らかな笑み。
 理玖もジルの動作に新たな発見を得ていたが、理玖もまたジルに新しい表情を浮かべてみせる。

 まだまだ、互いに互いが知らない領域に満ちている。これから先、どれだけの表情を彼から引き出せるのだろうか。
 いつかは、水面の月を掴むような——この不安定な関係性を、しかと掴んで離さないと確信できるほどの強固なそれへと育てていくことができるのだろうか。
 思いもよらなかった。自分が、こんなにも誰かとの繋がりに固執するようになるだなんて。それだけ、彼の存在は、近衛理玖という標は、ジルにとって何物にも代えがたい光であったのだ。

 彼にとっても、自分という存在がそうあれたらと、そうなってみせると、温もりの残る手のひらを握り込んで。
 ジルの貸し与えた赤色のジャケットが闇へと霞み消えていく前に、ジルもまたその細身の背中を追いかけるのだった。