Season.01 罪負う少年と贖いの標

断章・2 それはまるで砂糖菓子を頬張るような

 ——Side:Gilles

 ライアートの罠から生き延び、ジルが理玖へと贖罪の誓いを立てた日の、その夜。

 満身創痍の身となったジルは、その身体が回復するまでの間、近衛家に世話になることとなった。
 掃除屋が任務の遂行によって一定規模以上の外傷を被った場合、一般人の医療機関は使えない。軽度のものならばいくらでも原因のごまかしが効くのだが、重度のものとなってしまうとそうはいかない。
 魔法使いを専門とした医療機関もあることにはあるが、身体が欠損したであるとか、骨折をしてどうしようもないであるとか、そういったレベルの損傷でも起きなければ、そこに掛かる魔法使いは少ない。
 大抵の傷は回復魔法を用いて経過観察を行えば、問題なく日常生活に復帰していけるためである。

 それを踏まえた上で、ジルの容態はどうかと言えば、身体のそこかしこに傷を負い、動かそうとするならば鋭く痛む状態ではあるが、幸い数多の傷のそれぞれは深くはない。
 恐らく、直前まで身体強化の魔法を施していたことが幸いしたのだろう。
 理玖が発見した当時危惧されていた出血多量による生命危機も、曜の手製の魔法薬——ごく清純な外気に血液の成分と同等の機構システムを与えた、仮初の血液のようなものだが——これの投与によって、どうにか回避されている。
 内臓まで届くほどの重篤な傷はなく、食事くらいは問題なく行うことができるだろう。であれば、魔法使い専門の医療機関に掛かるまでもない……というのが、曜の診断である。

 とはいえ、身体が思うように動かないのは事実。
 時は夕刻。普段であれば夜の掃除屋稼業のために、早めの夕飯を済ませる時間ではあるのだが——

(参ったな。
 とてもじゃないけど、箸どころかスプーンすら持てる気がしない……)

 動かそうと力を込めるたび、激しい電流が走るかのような激痛に見舞われる腕に、ジルはどうしようもなく途方に暮れていた。
 体内時計は恨めしくも規則正しく機能しては、すっかり空になった腹をぐるぐると鳴らす。
 昼下がりに曜に淹れてもらったアイスコーヒーが、やたらに恋しい。
 身体はそれを回復させようと栄養を欲しているのに、これでは気軽に物を食べることもできそうにない。腹は鳴るが、自分の一存でそれを満たすことはできないのだ。
 過去これほどまでの怪我を負った経験がないジルにとって、自分の身体が思うように動かない苦しさを思い知らされるのは、これが初めてだった。

 さてどうしたものかと頭を悩ませていると、その思考を遮るように、部屋の扉を軽く叩く音が響いた。

「——ジル? 起きているだろうか。
 晩ごはんを持ってきたのだけど……」

 扉を隔ててくぐもって聞こえてくるのは、理玖の声だ。
 どうやら近衛家でも、この時間は夕飯の時間にあたるらしい。
 自分以外の人間に食事を用意されるのが随分と久しぶりで、すっかり失念していた。そういえばここは他人の家であったのだ。厄介になると決まったのであれば、待っていればそれが出てくることもあるだろう。
 ……それは、ありがたいのだが。

「あー、起きてはいるんだけど、その……」

 結局のところ、食事が用意されたところで傷だらけの腕が動かないのには変わらない。
 必然、歯切れが悪くなる返答が情けない。
 どう説明したものかと頭を悩ませていると、不自然に流れた沈黙を怪訝に思ったのか、扉の向こうで理玖が戸惑っているような雰囲気を漂わせる。

「? とりあえず、中に入らせてもらう」
「あ、ハイ……」

 思わず畏まって、ゆっくりと開く扉を眺める。
 ナチュラルブラウンの木の盆を片手で支えた理玖が、利き手の左手でドアノブを回して扉を開ける。
 日が長くなったとは言え、今やすっかり暗くなってしまっていた部屋の電灯のスイッチを彼が入れると、眩い光が部屋を満たした。
 先ほどまでの暗がりに慣れきっていたジルは、反射的に眼を閉じる。
「ごめん、眩しかったかもしれないな」
 申し訳なさそうな理玖の声に、「大丈夫だ」と返しながら瞼を再び開ける。
 ゆっくりと明かりに順応していく視界に映ったのは、盆を両手で抱えて歩み寄ってくる理玖の姿だった。

 やがて彼はジルの座るベッドに辿り着くと、ベッド脇のサイドチェストにその盆を降ろす。
 盆の上には、手製であろうポテトサラダと鶏肉のソテー、具沢山の野菜のスープと、それに白いご飯が所狭しと乗っている。
 出来立てと思しき湯気に乗って漂うその香りが、なんとも食欲をそそる。
 メニュー全体を見れば洋風のそれであるのに、主食が白米というところに、極東という土地の食文化がはっきりと表れているのだった。

 普段一人暮らしをする中で、食事を出来合いの弁当やカップラーメンで済ませているジルにとって、目の前に出された食事はまさにご馳走と言っても差し支えない。
 病人に出すには少し量が多いかもしれないが、幸い曜の処置のおかげで食欲に衰えはない。消化器官も問題ないだろうとお墨付きももらっている。
 正直なところ、お腹をぺこぺこに空かしていたジルは、ごくり、と唾を飲み込む。 可能であるのなら、極東の習慣に倣い手を合わせて、すぐにでもありつきたいくらいである。しかし——

「凄く、美味そうだな……!」
「うん、きみにごはんを振舞えると師匠せんせいが張り切ってしまって。
 ベッドに備え付けられる机があれば良かったのだけど、生憎うちには無いものだから……。
 このままで良ければ、召し上が——……あ」

 ベッド脇の椅子に座り、ジルに食事を勧めかけた理玖が、その視界にジルを捉えて言葉を詰まらせる。
 ……どうやら、理玖も察したようだった。今のジルにとっては、普通に食事を摂ることすら、非常に難易度の高い行為となってしまっているということを。

 一瞬の、沈黙。それはジルにとってはなんとも居たたまれない瞬間だった。
 どう取り繕おうにも、腕が動かないことは事実。

 最悪、これだけのご馳走を前にお預けを食らって、滋養効果のある魔法薬の投与で終わり、なんてこともあり得る。いや、それを用意してもらえるだけでも、ありがたいことではあるのだが。

「……少し、待っていてくれ」

 言い知れぬ気まずい雰囲気をジルが感じている中、理玖がそう言い残して部屋を出ていく。
 もしかしたら、何かよい案でも思いついたのだろうか? ジルの中に、淡い期待が過ぎる。

 しばらくすると、理玖は手元に銀色に輝く何かを持って、再びジルの元へと戻ってきた。
 彼がベッド脇に座ってようやく、それの正体をはっきりと認識する。何の変哲もない、ただの大き目のスプーンである。

「いや、あの、理玖……」

 せっかく持ってきてもらって悪いのだが、先ほどジルが諦めたように、例えスプーンであっても恐らく、手に持つことは難しいだろう。
 ジルが再びどう説明したものかと思案し始めると同時に、理玖がおもむろに口を開いた。

「ごめん、きみが腕を使えないことをすっかり失念していた。
 僕がこれでごはんを運ぶから、きみは口を開けて待っていてほしい」

 どうということはない顔でそう言い放って、理玖は盆の上のポテトサラダをスプーンでひと掬いする。
 そしてそれに手を添えて、そっとジルの口元に運ぶと「口を開けて」と再びジルに催促をするのだった。

「へ……? は……——」

 ……いや、待ってくれ。

 今のこの状況に追いつけないでいるジルは、一度頭をまっさらにして状況を洗い直す。
 理玖の考えは正しい。あくまで曜が用意してくれたこの食事を頂くのであれば、腕が使えない以上、別の方法を考える必要がある。
 そこで出した理玖の解決策がこれである。理玖が食事の補助を行うことで、ジルも腕を使うことなく、このご馳走にありつけるというわけだ。そこまではいい、理に適っている。けれど。

(なんか、うまく言えないけど、これは相当恥ずかしい……!!)

 理屈ではない、感情の部分が、ジルにそれに甘えることを躊躇わせる。

 幼い頃に風邪を引いた時でさえ、出された食事は自分で摂っていたのだ。こんな風に、誰かに介助されながら食事を行う経験は、ほぼ無いに等しい。
 加えて言うならば、相手も悪い。ジルにとって理玖はあの一件を経て、特別な想い人だとそのように認識が変わったのだ。言い知れぬ気恥ずかしさと、妙に浮ついた気持ちが心に同居している。
 こういうシチュエーションは、極東の若者に人気の、ライトノベルという類の小説で読んだことがある。

 ——これは俗にいう、「あーん」というヤツだ。
 小説の主人公がヒロインに看病の一環でしてもらう、アレだ。

 そう思うと途端に、気恥ずかしさの方が浮ついた気持ちを上回る。顔が妙に熱く火照るのを感じる。

「……どうしたんだ?
 早く食べないと、他の温かいご飯が冷めてしまう」

「え? あ、ああ……いや、その……」

 心底怪訝そうに小首を傾げる理玖のその仕草に、ぐっと心を掴まれる。
 なんとも不思議だ。ひとたび彼に傾倒してしまっただけでこうも彼の一挙手一投足に心を奪われるとは。
 最初に出会った時から整った容姿だとは思っていたが、まるで氷の華のような美しい風貌を持つ彼からその仕草を繰り出されると、そのギャップが途端に愛らしくてたまらなくなってしまう。

 頭の中の冷静な自分が「バカか。一体どうなってしまったんだ」と罵倒してくる。
 そんなのは、こっちが聞きたい。本当にどうなってしまったんだ。いや、そうではなく……。

「や、やっぱり、自分で食うよ……!
 スプーンくらい気合でなんとか……ッ」

 見栄を張って腕を動かそうにも、身体はついていかない。
 理玖の手からスプーンを取り上げようと両腕に力を込めるものの、その瞬間に容赦なく走る激痛に痺れ、それは力なくくたりと布団の上に転がる。

「その腕では、持ち上げるのも辛いだろう。
 きみだって、ごはんを持ってきた時に困った顔をしていただろうに」

 正論としかいえない指摘に、ぐっと唇を引き結ぶ。
 彼のいつもの理路整然とした物言いが今は鋭く刺さる。
 きっと理玖は、ジルがどうしてこんなにも動揺しているのか分かっていないだろう。いや、分かられていてもいろいろと困るのだが。

 さあ、と再び口元に運ばれる料理に、比喩でもなんでもなしに「ぐう」と声が漏れる。
 理玖はたまに、妙に押しが強いときがある。以前言い争いになった時のことを踏まえると、もしかしたら何者かに施しを行うときにその習性を発揮するのかもしれない。
 と、なれば、容易に引き下がってくれるとも思えない——気恥ずかしさは拭えないが、致し方がない。

「じゃ、じゃあ……悪いけど、頼めるか」

「うん」

 意を決して、口を開く。
 理玖が運ぶスプーンが、至極優しくその中へと差し込まれる。

 その匙の上に乗ったひと掬いのポテトサラダは、食事を欲していたジルの口の中でまろやかに蕩け、マヨネーズの爽やかな酸味とじゃがいもの自然な甘みがふわりと広がる。軽く咀嚼すると、サラダに混ぜ込まれたきゅうりがささやかな苦みを醸し出し、よいアクセントとなって他の味と調和する。これは、実に——

「……! 美味い!」

 普段ポテトサラダなど買わないジルだが、それでも今食べたポテトサラダは、店で提供されるそれとはどこか違うように感じられた。
 家庭の味、というやつだろうか。実家でもそうそうありつけなかったその優しい味わいに、顔が綻ぶ。
 そんなジルの表情と感想に安心したのだろうか。ジルの口内から抜き出したスプーンを膝の上に握って、ジルの様子を見ていた理玖が——僅かに唇を緩ませる。

 ——一瞬、だった。普段冬のような雰囲気を漂わせる彼が見せた、その表情。

 ジルが理玖と共に過ごしていく中で確かに感じ取った、彼の内側に潜む温かな気配。
 それが滲み出した瞬間を、ジルは見逃さなかった。その一瞬に、心を奪われる。
 そして密かに確信をする。ああ、やはり——彼は本来、春のような人なのだ。
 こんな温かで、穏やかな美しい表情を、隠し持っている人なのだ。

 彼を特別だと、大切だと定めてから再確認する彼のその気配は、あまりにも輝かしく思えて。
 生まれて初めての、胸が甘く痺れるような感覚を覚える。この感覚を、言葉にするならば、そう。

 ——とても、愛おしい。できることならば、ずっと見ていたい。
 一瞬、ではなくて。もっと、彼の内にある温かさに触れていたい。

 その胸の痺れで、自分の内にある彼に対する想いが、紛れもない恋情なのだということを再認識する。
 それなら、仕方がない。バカにもなってしまうはずだ。
 数刻前に曜に釘を刺されたばかりだというのに、彼への気持ちは加速度的に膨らんでいく。
 いけない。この気持ちを悟られては。抑えろ、抑えろ——

 ジルが必死になって葛藤する傍ら、そんなジルの胸中を知る由もない理玖は、一瞬の春の気配を消し去って何事もないかのように口を開く。

「それは、良かった。師匠せんせいに伝えておこう。
 さあ、食欲があるのなら、他の料理もどうぞ。口に運ぶのは任せてくれ」

 次にスプーンを差し入れるメニューを思案する理玖の、その仕草ですら、今のジルにとっては想いを増幅させるための燃料にしかならない。

 食事はまだまだ続いていく。彼からの施しで、美味しい食事に舌鼓を打って。
 ひと口、ふた口と自分が食事を楽しめば、彼もまた僅かに微笑んでくれるだろうか。
 それを思うと、やがてジルの内側は自制よりも放縦の気持ちに溢れていく。
 彼にこの気持ちを悟られてはいけない、けれど——状況は、その想いが膨らむよう動いていくばかりだ。

 ならば、今はいっそのこと、この状況を甘んじて享受してしまうのもアリなのではないだろうか。
 なかなかありつけない美味しい食事に、この、甘く痺れる感覚という魔性のスパイスを振りかけて、まとめて胃袋に詰め込んでしまう、というのも、許されはしないだろうか。
 幸い、理玖は膨らむこの想いに気が付いていないようだ。おかずの次はご飯だろうと言わんばかりに、手にしたスプーンに白米を掬って、ジルが再び口を開けるのをじっと待っている。

「……ふふ」
「? どうかしたのか?」
「いや、幸せだな、と思ってさ」

 不思議そうに、理玖が首を傾げる。
 ジルの心に灯る温かな気持ちを、彼は知らない。
 けれど、今はそれでいい。この温かで、穏やかで、愛おしいと思う気持ちこそ、ジルがそうと定めた新たな生きる標だ。それは、ジル自身がそうと知っていればいい。

 先ほどまでの気恥ずかしさは、今はもうどこにもない。
 彼が僅かに覗かせた春に心を染められながら、ジルはこの甘やかなひと時を噛み締めようと再び口を開くのだった。