断章・1 ファースト・ステップ・アナザーサイド
1 ——Side:Riku
「お節介だったら悪いんだけど。
この仕事、お前にとっては大変じゃないか?
——何か困ったことがあれば言えよ。人を捌くのは得意なんだ」
出会って間もない、まともに会話をすることを避けていた新しい同僚は、自信が無さげにそう口にした。
様相とは裏腹に、一直線に的を射るような言葉に、思わず視線が泳ぐ。一か月にも満たないその期間で、その青年は理玖のことをまるですっかり見通しているようだった。
ああ、だから心配していたのに。彼を——ジルを立ち上げたばかりの掃除屋に引き込むと師匠に伝え聞いたその時から、こうなるという予感はあったのだ。
たった三人の組織。ごく限られた小規模なコミュニティならば、数少ない隣人に温情を分け合うことで、より相手と親密になっておこうと考えるのが、きっと円滑な関係を形成するに最適な行動だろうから。
————
「彼とパティスリーの店番を、ですか……?」
それは、ジルとの初対面を終えたその翌日のことだった。
できることなら聞き間違いであってほしい、と願いながら理玖が師である曜に尋ねると、悪びれる様子もなく彼女は「そうとも」と笑みを返す。
「これからはしばらく、君とジルの二人三脚で任務にあたってもらうことになる。それならば、簡単な仕事を共に熟すことで、多少はお互いのことを知ってもらわなくてはね。
なあに、彼ならば大丈夫さ。君とはきっと相性がいい」
何を根拠に。不安で吐き気すら覚え始める理玖を余所に、曜は朗らかに微笑んで見せる。
曜がこの有無を言わせない顔をしている時は、何を言ったところで梃子でも動かない。長年彼女の弟子をしている理玖は、嫌でもその理不尽さに気づかされていた。
何もジルという人間が嫌いだとか、そういうことではない。
寧ろ、彼は至って善良かつ明朗快活な好青年で、自分自身をどうしようもない人間だと感じている理玖からすれば、隣に立たせてもらうことに引け目を感じるほどにはよく出来た人である。
けれど——理玖自身はできることならば、他者と密に関係を持つということを避けたいと、常にそう願っているのだ。
実際、自分の出来得る限り、他者との接触を遠ざけてきた。
何故なら——
何故なら、人と親密になるということは——
己の中の闇を暴かれるリスクと、常に隣り合うということなのだから。
————
「……きみの手を煩わせるまでもない。
僕のことは気にしなくても大丈夫だ」
故に、理玖の身を案じたジルの申し出を、理玖は突き放す。
これ以上の干渉を拒むようにして。
心配をしてくれることはありがたく、また申し訳ない。けれど、差し伸べられたその手を取ったことで懐に入り込んでこられるようなことは、避けなければならない。
理玖が彼を——他者を拒むのには理由がある。
自らが抱える自戒の意識。
自分自身に感じる無価値感。
幼少のみぎりに培われたその負なる想いは、重たく蜷局を巻いて理玖の奥底に横たわる。それこそ、無意識の階層までその根をのばして。
それに触れられることを拒絶したい。それに触れられることで、どうにか平静を保っている自分の外面が崩れてしまうことを、何よりも恐れているから。
——『どうして理玖くんは、いつも包帯を巻いているの?』
——『理玖くんのママ、本当のママじゃないってほんと?』
——『どうして、理玖くんは——
理玖がまだ、冷気を纏う、それよりも前。
人間社会に溶け込もうと、必死で外面を取り繕っていた日々のこと。
何気ない会話の中で、その言葉は投げかけられた。
無邪気な子どもの、悪気のない純粋な問いかけだった。
無垢なそれに揺り動かされ、理玖の裡に巣食う影が鳴動する。
……言いたくない。言えるはずもない。
だって、それは、己が罪の記憶を曝け出すということだ。
苦しみに満ちた過去の記憶。身体中を焼くような痛みの記憶。
脳裏にそれを思い出すだけで、胃の中がずしりと重くなる。
内臓の全てを溶かすかのような熱。
脳天が廻るかのような眩暈。
その記憶に打ち勝ったとしても、その先には他者から送られる何らかのレスポンスが待っている。
それが何であれ、自分にはそれを受け止めることのできる器などないと分かり切っている。
だから、逃げた。
その一瞬だけではなく。自分の深層に入り込もうとしてくる全てから、逃げることにした。
己の内側を暴かれないために、過去を反芻するたび待ち受ける苦痛と——受け取ることのできない、温情から逃れるために。
だからこそ、今目の前で閉ざされた心の裡に入り込もうとしている、新しい同僚からの優しさを拒絶している。本来ならば受け入れられるべきその優しさを、払いのけようとしている。
というより、寧ろ彼こそ、奔放な曜の気まぐれに振り回された被害者だろうに。弟子として、大変に申し訳なく思う。
「僕の方こそ配慮が足らなかった。きみこそ、こんな仕事がしたくて
それだけで話を終わらせるつもりで、彼に詫びを入れる。
冷たい拒絶と、心底からの詫言。
裏腹であるという自覚は、理玖にはない。
ただ、自分の懐に入られまいという保身に囚われて、そんなことを考える余裕などはなかった。
正直に言えばうまく頭が回っていない。
この場から逃げ出したい一心で、早急に会話が終わってくれるのを願うばかりだった。
しかし、そんな理玖の願いなど知り得ないジルの口から語られたのは、理玖が期待していた反応とは似て非なるものだった。
「いや、お前が謝ることじゃないだろ。
オレも納得して引き受けたわけだし……心配してくれてありがとうな。
お前自身のことも、大丈夫って言うんならそれを信じるよ。
けど、本当にキツいなら言えよ。出来る限りフォローする」
彼は、笑う。陽のように心を包むような笑顔だった。
ジルの言葉が示したその距離感は、理玖が期待していたものよりは近く、けれど危惧していたものよりは遠い。つかず離れず、という言葉が、きっと正しい形容だと言えるだろう。
その距離感は、なんとも。
——なんとも、理玖にとって『心地の良い』距離感だった。
思わず、呆気にとられたようにぽかんと口を開ける。
何故なら——理玖にとってジルという人物は、出会った時から友好的な態度を崩さず、理玖が突き放してもめげることが無く。
人との関わりを避けたい理玖にとっては、正直一番苦手なタイプかもしれないという印象が拭えなかったのである。
けれど今、彼は理玖の言葉を信じ、本当に必要な時に力を貸そうと口にしている。想像していたより、ずっと思慮深い対応だ。
もしかしたら——仄かな期待が、胸をちらつく。
この人ならば、こちらの心の裡を無遠慮に暴こうとはしてこないのではないか。理玖がやむを得ず距離を取ったとしても、大らかに受け止めてくれるのではないか。そうであるならば——
——彼となら上手くやっていけるのではないか。
ふっと、気が抜ける。まだ、彼の全てを目の当たりにしたわけではない。けれど、こちらに過干渉をしてこないと言うのであれば、そこまで気を張りつめる必要もきっとないだろう。
そこまで思案して、ようやく彼の厚意を素直に受け止める。
警戒して、失礼な態度を取ったことに対する謝罪も含めて、理玖は小さく、彼に感謝の言葉を述べる。
「……うん。ありがとう……」
——曜が言っていた、「相性がいい」とは、もしやこのことか。
ふざけているように見せかけているが、やはり彼女は慧眼だ。
理玖の感謝を聞き届けたことで、いくらか満足したかのようにケーキの在庫数を数え始める隣の青年を盗み見ながら、理玖は静かに、ほっと、胸を撫でおろすのだった。