断章・1 ファースト・ステップ
1 ——Side:Gilles
それは桜の木がその花を綻ばせる、春の匂い香り立つころ。
結ばれる縁、解ける縁、出会いと別れ。何かが始まる予感に人々が気持ちを浮つかせる。そんな季節。
この春からこれまでの職場を離れることとなった青年、ジル・テレストリアスもまたその世情に漏れず、新天地にて未経験の仕事に勤しんでいた。
「こんにちは。シフォンケーキ、二つお願いできるかしら?」
「ああ、はい。いらっしゃいませ。シフォンケーキですね。
お家まで、お時間かかりますでしょうか?」
「いいえ、すぐそこだから。そのままでいいわよ」
近所に住んでいるという初老の女性の注文を受け、ショーケースからケーキを取り分ける。
春爛漫の気配が漂う穏やかな午後のひととき。
されどジルの心中はそれにそぐわず、モヤモヤと霞が掛かっていた。
閑静な住宅街に佇む洋菓子店。『パティスリー・猫巻』
この洋菓子店の店員こそ、彼の新たな職業である——
——というのは、あくまで
ジルの本来の姿。それは、この世界の裏側で生きる秘匿された人種・魔法使いと呼ばれる人々が生業とする保安組織の構成員。
——『掃除屋』。鳴動する星に巣食う悪性を取り締まる、その執行人こそ、彼の真の姿である。そのはずなのだが——
(初めての仕事だけど、これはこれで……。
いや、待て待て。何をやらされてるんだ、オレは……)
笑顔で感謝の意を口にして去っていく買い物客に一瞬絆されかけるも、次の瞬間には我に返って、ジルは眉間を抑える。
右も左も分からないパティスリーの接客対応。持ち前の対人スキルでどうにかそれに従事しているものの、本来自分が扱うべきはこんなふわふわと可愛らしいケーキなどではないはずなのだ。理想と現実のギャップに頭の中がぐるぐると渦を巻く。
何故、彼が苦悩しながらも、本職でない洋菓子店の業務に従事しているのか。
その発端は、とある日の日中まで遡る。
————
「はあ……パティスリーの店員、ですか?」
突然に呼び出された、休業時のパティスリー店内。
そのイートインコーナーに設置されたテーブル席にて。
テーブルを挟んだ向かいに腰掛ける魔女に差し出された黒色のエプロンを受け取りながら、ジルは今まさに彼女から告げられた言葉を復唱する。
戸惑うジルの表情に、されど魔女はそれを気に留める様子もなく、「そうとも」と笑顔を浮かべながら口を開いた。
「君がこれから所属する『掃除屋・キャットテイル』はね、ご存じの通り、立ち上げたばかりの零細組織なんだ。よって、活動にあたり、それとは別の収入源が必要になる。
それこそが、一般人の社会に溶け込む洋菓子店。
その名も『パティスリー・猫巻』というわけさ」
なるほど……なるほど?
納得しようと思えばそれは簡単だが、そのような条件は果たしてスカウトされた際に伝え聞いていただろうか?
ジルが数か月前の記憶を手繰り寄せようという前に、エプロンを彼に押し付けた魔女——
「もちろん、タダでとは言わない。相応の報酬は支払うとも。
それに、この仕事は何も、経営資金の調達や私の趣味というだけの代物じゃない」
「自分の趣味だって自覚はあるんですね……」
「大手が扱いきれない案件こそ、我々が回収すべき仕事なんだ。
君も理解しているだろう? なにしろ、
それを拾い上げるには、一般人が持つ『
ジルのやや呆れた合いの手を物ともせず、曜は意気揚々と言葉を続ける。
「私たちはその情報を得るために、人々が団欒する憩いの場を提供することで、それを効率的に収集しようというわけさ。
どうだい? 理に適っていると自負しているけれど」
なるほど……なるほど。
掃除屋とは、星が生命活動をする際に生じる悪性・亡霊と、魔法使いの法に背いた異端者と呼ばれる犯罪者を殲滅、或いは取り締まる保安組織である。しかし、魔法使いの公的機関の息がかかったような大手の掃除屋がその全てに対処できるかというと、そうとも言い切れない。
大手の掃除屋がその規模に見合った案件のみに集中してしまった場合、おのずとそこから零れ落ちる規模の小さな案件も生まれてくる。
ジルが移籍してきた掃除屋・キャットテイルのような小規模な掃除屋は、そのような案件を拾い上げることで、世界の運営を守るその一助となることができる、というわけだ。
それなら確かに、その『小さな案件』である可能性を秘めた『一般人の困りごと』を収集することが、仕事たりえる案件の発見に繋がるかもしれない、という主張も理解できる。
「わかりました。あんたの言うことも確かだ。引き受けます。
ところで——理玖も、その店を手伝うんですか?」
「ん? 理玖? まあ、休日はね。平日は学業があるから。
理玖が、どうかしたのかい?」
先ほどまで悪い商人の如き邪悪な笑みを浮かべていた曜の表情は、ジルの言葉を受けて一転、怪訝そうなそれへと変わる。
彼女のその表情の変化も無理はない。これまでの話には一切登場しなかった人物の名を唐突に出されては、そんな顔にもなるだろう。
何故ジルがその名を口にしたのか。それは初対面の時から、彼のどこか不思議な雰囲気が妙に気になっているためだった。
——春のような温かな瞳の色をしているのに、纏う空気は冬の冷気そのものである。
出会って間もない、ということもあるだろうが、未だにジルは理玖と長く言葉を交わし合うような会話をしたことがない。言葉を交わせたとしても、一言、二言くらいのものだ。彼はいつだって、冬の外気の如き冷たさで、こちらを遠ざけようとする。
それでいてあの琥珀のような金を見ていると、どうも人嫌いというわけではなさそうな柔和さを感じることがある。本当に、不思議な人間だ、近衛理玖という男は。
そんな彼が、接客業などをさせられて大丈夫なのだろうか。
人を遠ざけるというなら、そういう仕事は苦手だろうに。
もしそれを押し付けられるようなら、さすがに同情せざるを得ない。
「あいつ、あんまり人と話したくないみたいだから。
接客業とか、苦手なんじゃないかって思うんですけど……大丈夫かなって」
もしかしたら、見当違いなことを言っているかもしれない。そんな心許無さから、ジルは僅か瞳を逸らしながらそう口にする。
ジルの言葉を耳にした曜は、ぽかんと呆けたように口を開けていたが、やがてみるみる内にその眼を上弦の月のように細めて、くつくつと声を漏らした。
「ふふ、そう、君は理玖を見てそう思うんだ」
「な、なんですか、その含みのある言い方」
「いいや、なんでもないとも。ふふ。
その言葉、そのまま理玖に掛けてあげたまえよ。
そうすれば、少しばかりはあの子に近づけるかもしれないよ?
ちょうど、今週の週末には、彼にもシフトに入ってもらう予定だからね」
にこりと笑みを作ると、曜は席から立ち上がる。
「では、さっそく明日からよろしく頼むね。
出勤時間は厳守で。君なら心配はいらないだろうけど」
そうして鼻歌を歌いながら、彼女は軽やかな足取りで店舗の奥にある階段へと消えていく。
一人残されたジルは、なんとも言えない小気味の悪さを覚えたまま、その姿を見送る。
一体曜の言葉には、どういう意図が隠されているのだろうか。核心に触れぬままに意味深なそれを残されては、少なからず心の中に引っ掛かりが生まれる。
それでも、曜が本人に直接言ってやれ、と言うのだから、まあ、機会があったら声を掛けてみるか。
手にしたエプロンをそっと広げて、なんとはなしにそんな思いを心の裡に仕舞う。
パティスリーの仕事が如何様なものかは分からないが、それが掃除屋稼業に必要なことなら、どうにかやってみよう。
かくして、曜による半ば強引な上司命令によって、ジルは掃除屋の仮の姿である、パティスリーの店員としての労働にも従事することとなったのである。
————
そんな
世間的には休日の今日。ジルが想像していたよりも店は盛況で、目まぐるしくしている間に時刻は既に十五時を回ろうとしている。午後のピークを越えた現在、店内の客はまばらに落ち着いていた。
ようやく、一息つけそうだ——慣れない業務と、自分が本当に為すべき仕事とのギャップに苦悩していたジルは、小さく息を吐く。忙しくて困りごとの収集どころの騒ぎではなかった。
今日一日で相当に頭のリソースを使った感覚がある。思考するのも億劫になってただ茫然と店内に目をやっていると、イートインコーナーで机を拭いていた理玖が、布巾を片手にカウンターへと戻ってくるのが視界に映った。
カウンター内へと入った理玖に「お疲れ」と声を掛ければ、彼は「お疲れ様」と短く返事をする。そしておもむろに持っていた布巾とは別の布巾を手に取り、取り分け用のトレーの掃除を始めるのだった。
そういえば、同じシフトに入ったというのに、結局今日も一度たりとて理玖とまともな会話をしていない。業務に必要な掛け合いは交わしていたのだが、それ以外のことは何にも。
勤務中は私語を慎め、と叱られてしまうかもしれないが、客もまばらになった今ならば少しの雑談くらいは許されないだろうか。涼しい顔でトレーを拭く理玖に、ジルは何気ない調子で声を掛けることにした。
「今日、結構お客さん多かったな。
普段から休日はこんな感じなのか?」
「うん」
「始めたばかりじゃ、なかなかこうはいかないだろ。
このお店、実は結構長かったり?」
「うん。僕が小3の頃からになる」
「へえ……」
こちらに一切視線を向けずに、理玖は淡々とジルの質問に短い答えを返す。
その言葉にジルも、そういえば理玖は曜の養子なのだった、と思い返したりはするが、今の会話で得られる情報といえば、既に伝え聞いているそれと、そこから逆算することが可能なパティスリーの開業年数くらいのものだ。
さて、困った。
どうすれば、彼との会話を広げることができるだろうか。
彼のそっけない態度が『ただ他人に興味がない』というだけのものならば、ジルだってこんなにも懸命に取りつく島を探ったりはしないのだ。
しかし、この近衛理玖という人物に限って言えば、『彼の本質はそういったドライなものでは無いのではないか』と、そのような予感があるのである。それはもう、初めて出会ったその日から。
——冷酷無情、というよりは、他人を己の裡に踏み込ませまい、としているような——そんな彼の雰囲気がジルに、彼との距離を縮めてみたいという興味をもたらしているのだった。
不思議だ。こんなにも他人に興味を引かれることは、ジルにとってそうありはしないことなのだが。
思案を巡らせる内、やがてジルは先日の曜との会話を思い出す。
ジルが理玖への心配を口にしたのを聞いて、曜が妙に腹の立つにまにまとした顔をして見せた、あの時の会話だ。
余計なお世話かもしれない。けれど、曜が言うように、彼に近づくきっかけになるのなら。
自分が口にしたそれを思い出しながら、ジルは再び理玖と話をしようと彼に声を掛けた。
「……この店が開店したのが、お前が小3の時から……ってことは、お前もこの店の手伝いをし始めてから、長いのか?」
「いや、今年からだ。
「ふうん。その、お節介だったら悪いんだけど。
この仕事、お前にとっては大変じゃないか?」
ジルの言葉に、布巾を滑らせていた理玖の手が止まる。
狼狽えるように彷徨う金の瞳。その、ほんの細やかな変化。
例え小さなものだとしても、ジルにとっては初めて目にする反応だ。
思わず視線が彼に釘付けになってしまう。
新鮮な気持ちでジルが理玖を見守っていると、やがて理玖は視線を手元のトレーに落としながら、小さく口を開く。
「……なぜ?」
「いや、お前って、人と話すのが苦手みたいだから。
接客業とか、ホントは避けたい案件だろ。
何か困ったことがあれば言えよ。人を捌くのは得意なんだ」
動揺してみせる彼を、なるたけ怖がらせないように。ジルが明るく笑みを作ると、理玖は落としていた視線をゆっくりとジルに向けた。
——その金色の瞳と、目が合う。
初めて出会った時と同じ、どこか温かさを感じさせるその
今は不安定に揺れる、その瞳に引き込まれる。
それはまるで、水面に揺れる、温和な光を湛えた月のような——
美しい金に目を奪われているジルを知ってか知らずか。言葉を選ぶようにしてひとつ時間を置いたあと、彼は整った薄い唇を開いた。
「……きみの手を煩わせるまでもない。僕のことは気にしなくても大丈夫だ。
そんなことより——僕の方こそ配慮が足らなかった。きみこそ、こんな仕事がしたくて
突き放すような言葉のあとの、心底申し訳なさそうな詫言。
予想外だったその反応に、今度はジルが面食らう。
手を差し伸べたつもりが、まさか逆に、謝罪の言葉を投げかけられるとは。
その理玖の言葉が、ジルの中の予感を確信へと少し近づける。
やはり、彼という人物は、ただの冷酷無情そのものであるというわけではなさそうだ。そうであるならば、ジルの言葉に己の非を見出して謝罪するなんてことはしないだろう。
突っぱねられでもしたらと、やや緊張していた気がふっと緩むのを感じる。それと同時に、こちらこそ要らぬ心配をかけているのであれば、その心労を取り除いてやらねばという想いが募る。
申し訳なさそうに下を向く理玖に、ジルはなんてことはないように肩を竦めた。
「いや、お前が謝ることじゃないだろ。
オレも納得して引き受けたわけだし……でも、心配してくれてありがとうな。
お前自身のことも、大丈夫って言うんならそれを信じるよ。
けど、本当にキツいなら言えよ。出来る限りフォローする」
心遣いへの感謝と共に、助力の意思表示を込めながら笑う。
彼が気にするなというのなら、きっと強引に踏み込むことはするべきではないのだろう。
理玖の言葉には、やはりこれ以上の干渉を拒まんとする頑なさが感じ取れる。
無理に近づいて分厚くも脆かろう心の壁を壊してしまっては、彼に近づくどころの騒ぎではなくなってしまう。
少しずつでいい。少しずつ、彼という人を知っていければいい。
今日のところは、ジルの予感のとおり、近衛理玖という少年が他人の気持ちを考えることのできる、柔らかな思考の持ち主であるということが分かっただけでも充分な収穫だ。
「……うん。ありがとう……」
たったそれだけジルに伝えると、彼は手にしていた布巾を再びトレーに滑らせ始めるのだった。
どうやら、この話題はここまでのようだ。
けれど、ジルにとっては収穫のあるひと時だった。
なにしろ、理玖と出会って浅いこの一か月弱の中で、一番会話らしい会話をすることができたのだから。
隣に立つ理玖が纏うその雰囲気は、先ほどよりやや柔らかくなったかのように感じられる。いや、感じられる、というだけで、実際は分からないのだが。
少なくとも先ほどの「話しかけるな」と言うような壁は取り払われたかのように思える。
この会話の中で、何が彼の琴線に触れたのか、それは定かではない。けれどとにかく、ジルが探っていた彼との距離感が、少しでも縮まったのであれば、それはなによりの僥倖だ。
それだけで、今日という日に彼と仕事をした甲斐はあった。苦悩を抱えながら目まぐるしく働いた一日ではあったが、ジルの中でその進歩はささやかな慰みとなったのであった。
————
それ以来、だった。
理玖が纏う冬のような雰囲気は、その全てが取り払われることは無くとも、ほんの少し和らぐようになったと感じられる。
ひとこと、ふたこと程度だった受け答えは、きちんとした数回のレスポンスによる会話へと変化する。
ともすれば、なんてことはない細やかな日常の一コマ。けれどそれに隠された何らかのピースが噛み合うことで、人の関係性というのは形を変える。
己が投げかけた言葉の何が、他人の心を動かすのか。
その善し悪しがいずれのものであれ、それは相手にしか分からない。
けれど、少なくとも——ジルにとっても、理玖にとっても、この日に踏み出した小さな前進は、互いの関係性を築いていく上で重要な始めの一歩となるのだった。